No25201−08 大津城 (おおつじょう)       

城址碑 石垣発掘現場の模擬石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 大津市浜大津1丁目、中央1丁目
築城年 : 天正14年(1586)
形  式 : 水城
遺  構 :
訪城日 : 平成23年3月22日

歴   史
天正10年(1582)の本能寺の変で焼失した明智光秀の坂本城とその領地は、清州会議を経て丹羽長秀に与えられ、天守等の再建が進められた。そんななか、天正11年(1583)4月に羽柴秀吉と宿敵柴田勝家が江北賤ヶ岳の地で激突、秀吉が勝利して勝家を越前北ノ庄城で自害へと追いやった。そして、翌5月坂本城には杉原家次を配置、8月に浅野長吉を瀬田城に入れたが、同年12月家次は福知山に領地替えとなり、代わって浅野長吉が坂本城主に就いた。
しかし、秀吉は天正11年(1583)9月大坂城の築城を開始、天正13年春には本丸が完成し、大坂に拠点を移した。大坂−京−北国を結ぶ街道は逢坂越えが主となり、琵琶湖水運の中継地も大津へと移り、天正14年(1586)秀吉は坂本城の浅野長吉に命じて大津城を築かせ、坂本城を破却し用材を大津城に移させた。その後、長吉は天正17年(1589)に小浜城に移封され、代わって水口城から増田長盛が入封、さらに天正19年(1591)長盛に代わり新庄直頼が配された。なお、直頼時代の文禄2年(1593)に城の修築が行われている。直頼は文禄4年(1595)に高槻城へ移り、その後に八幡山城主の京極高次が6万石で入城した。
慶長3年(1598)近畿地方を襲った大地震で大津城は大きな損害を受け、その修復途上の慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに突入した。高次は、はじめ西軍に応じて8月7日に加賀の前田討伐へと出兵したが、その途中で東軍へ寝返り、9月3日朝海津から湖上を渡り大津城に帰還すると3千の兵で立て籠った。
西軍は、毛利元康(毛利輝元の叔父)を大将として立花宗茂ら1万5千の軍勢で大津城を包囲し、大津城の西南に横たわる長等山の中腹に陣取った。総攻撃は9月6日から始まったが、城兵は奮戦し城はなかなか陥ちず一進一退の戦いが続いた。西軍は長等山に大砲をすえ、城内に砲撃を加えたが、城兵の士気は高く開城の様子は見られず、これに対し9月13日西軍は外堀を埋め三ノ丸を落とし、二ノ丸を攻め、いよいよ本丸を目指した。敗色濃厚となるなか翌14日西軍との和睦開城の申し入れを受けて、8日間の籠城を解き開城することになった。9月15日朝、高次は城を出て高野山へと向かった。
この前哨戦で大津城に釘付けにされた西軍1万5千の兵は、9月15日の関ヶ原での本戦に間に合わず、この間に東軍が勝利して終わった。9月20日家康は本丸だけが残った大津城に入城し、勅使に拝謁した。7日間滞在して関ヶ原合戦後の処理を行い、21日に伊香郡古橋村で田中吉政に捕縛された石田三成を大津城で検分している。三成は10月1日京都三条河原で斬首された。
一方、高次は大津城に西軍を釘付けにした功績が認められ、家康より若狭小浜8万2千石を与えられ、小浜城を築いた。
大津城に替わって戸田一西が入城したが、籠城戦で長等山から砲撃を受けたことから廃城となり、翌慶長6年(1601)膳所城が築城された。大津城の天守は彦根城に移築され、城門等は膳所城に多く移築された。
その後、大津は天領となり、城跡には代官所や蔵が立ち並んだ関津として発展した。
なお、京極氏は室町時代から戦国前期にかけて江北六郡を領しており、拠点とした城郭として上平寺館上平寺城柏原城河内城などがある。

構造と感想
大津城の記録はほとんど残っておらず、築城や縄張りに関する様子がまったくわからない現状にあるようだ。提示された縄張り図も推定でしかない。
城の位置は、現在の京阪電車浜大津駅周辺とされるが、当然ながら城郭の遺構は全く残されていないが、近年の発掘調査で石垣や建物礎石、金箔瓦などが発見され、ようやく本丸の位置が明確になって来たとされる。
なお、提示された縄張り図によると大津城は、本丸を琵琶湖側に置き、三重の堀を巡らせた水城であったとされ、外堀と城下は浜町口、京町口、三井寺口、尾花川口の4ヶ所で繋がれていたとされる。規模については、東は大津駅前通、西は琵琶湖疎水、北は琵琶湖、南は京町通りまでが外堀であったと推定されている。
昭和10年(1935)の旧大津郵便局建設工事(現大津市立図書館)のとき、地下2.6mから南北約50mにわたる石垣が発見され、内堀の石垣とされている。

道 案 内
大津駅前から中央大通りを北北東の琵琶湖方面に向かい県道18号線との島の関西交差点で左折する。県道18号線を西北西に560m程行った大津港口交差点の歩道橋の琵琶湖側下に城址碑がある。この一帯が城跡である。

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