No25202-07 彦根城 (ひこねじょう)       

天守と付櫓と高石垣 鐘の丸と太鼓丸の間の大堀切

城郭の概要 井戸曲輪の虎口
別  名 : 金亀城
所在地 : 彦根市金亀町
築城年 : 慶長8年(1603)
形  式 : 平山城(標高163m)
遺  構 : 天守(国宝)、西ノ丸三重櫓、天秤櫓、
      佐和口多聞櫓、馬屋、太鼓門、
      石垣、水堀、堀切、登り石垣、竪堀、虎口
訪城日 : 平成22年5月9日 

歴   史  内堀の鉢巻・腰巻石垣と表門橋
彦根城の立体模型(手前建物が表御殿)

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の論功行賞によって石田三成の旧領は井伊直政に与えられ、上野国高崎から18万石で入封した。直政は一旦、佐和山城に入城し、新城の築城を計画したが、同7年に関ヶ原合戦の鉄砲傷が悪化し死去した。嫡子直継は幼少で、補佐する家老木俣土佐は彦根山への新城の築城について家康の裁可を得て同9年より工事が開始された。
築城に際し幕府は3人の奉行を派遣し、7カ国12大名に助役を命じる天下普請であった。彦根築城は大坂城の豊臣秀頼への押えとして完成が急がれ、石材は近隣の城や寺などから集められ、天守も「不落目出度殿主」として大津城の天守を賜り、移築したものと伝えられる。これが前期工事で本丸や鐘の丸など内堀以内の主要部分が同12年までに築かれた。
元和元年(1615)の大坂夏の陣によって元和偃武を迎えると同2年より直孝によって後期の築城工事が再開された。後期工事は彦根藩単独で進められ、三重の堀を築き、内郭の重臣屋敷を第2郭へ移し、跡地に表御殿や山崎丸などが造営され、第3郭の城下町の町割もほぼ完成を見た。それは同8年(1622)であった。          


構造と感想                          
現在、外堀は埋められ残っていないが、中堀より内側の遺構が極めて良好に残っており、往時の姿を偲ぶには十分すぎる素晴らしい遺構である。
城の構造は、詰城と居館がセットになった二元的構造を持っている。彦根山の山頂部は中央に本丸を置き、西に西の丸と人質郭を、東に太鼓丸と鐘の丸を連郭式に配し、太鼓丸と鐘の丸の間そして西の丸と人質郭の間に大堀切を設け主要部を区画するとともに、斜面には登り石垣と竪堀をセットで5箇所に設け、斜面の横移動も遮断するなど、まさに中世山城の造りそのもと云える。
中世山城との違いは、石垣で固められている点や山下に三重の水堀を設け総構えとしている点である。山下である第二郭に重臣屋敷を、第三郭は「内町」と称し、武家屋敷と町人、また外堀の外の第四郭の「外町」には町人の住居と足軽の組屋敷を配した。内町・外町ともに武士と町人が居住していたが、明確に分化配置されていた。
           表門の登り石垣と竪堀

道 案 内            
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を西に750m程行った外町交差点を直進する。県道25号線入りJR跨線橋を越えて1.4km程行くと京町交差点で右折する。直ぐに外堀(旧中堀)に架かる橋を渡る。道なりに400m程進んだ先の左手が表門橋で、右側が有料駐車場である。

TOPへ 戻る

<<<凄い凄い最近の彦根城 >>> 石垣の保護のため石垣裾から5mの樹木を伐採中 

 
<本丸と井戸郭の石垣>      <天秤櫓の東櫓と石垣>

 
<天秤櫓の東櫓と石垣>     <米蔵水門と西の丸三重櫓>

 
<太鼓丸東側石垣と本丸石垣>        <玄宮園と天守>

 
<天守と付櫓>           <西の丸石垣>

 
<本丸石垣と佐和山城>       <大手門桝形>

 
 <外堀と西の丸と天守>      <佐和口多聞櫓と天秤櫓と天守>

 
 <山崎郭石垣と天守>      <佐和口多聞櫓と旧中堀>
<<<桜の彦根城>>>
 
天守と桜            西の丸石垣と桜
 
天秤櫓と桜         佐和口多聞櫓と桜
 
京橋口雁木と桜           京橋口と桜 
 
大手登り石垣と桜          鉢巻・腰巻石垣と桜
 
彦根城の石垣と桜         西の丸と桜