No25202-02 佐和山城 (さわやまじょう)       

本丸の南側石垣 本丸北西方向

城郭の概要
本丸の城趾碑
別  名 : 佐保城
所在地 : 彦根市佐和山町、古沢町、
築城年 : 建久年間(1190~99)
形  式 : 山城(標高232.5m)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、石垣、井戸、堀
訪城日 : 平成22年3月20日      

歴   史
 千貫井(井戸跡)

            
鎌倉時代初めの建久年間(1190~99)に佐々木氏一族の佐保時綱が、佐和山の麓に舘を構えたのが始まりと伝わる。その後、佐々木氏は六角氏と京極氏に別れ対立。戦国時代には、近江の覇権をめぐって六角氏と浅井氏が戦うなかで、六角定頼時代には小川氏が城主となり、浅井長政が台頭すると家臣で勇将として知られた磯野員昌を城主とした。元亀元年(1570)の姉川合戦に敗れた浅井方が籠城する佐和山城を攻め落とした織田信長は、重臣の丹羽長秀を配して京都と岐阜を往来する宿所として度々使用した。
天下が秀吉に移ると堀秀政、堀尾吉晴と秀吉股肱の武将が入城し、特に五奉行の石田三成が城主になると大改修が行われ、佐和山城の歴史の中で最大規模となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで三成が敗れると、父正継と兄正澄が守る佐和山城は落城し、徳川家康の命で井伊直政が城主となり、直政没後の慶長9年には彦根城の築城が始まり佐和山城は廃城となった。

構造と感想 山頂の本丸を中心にそれぞれの尾根に法華丸、太鼓丸、二の丸、三の丸、西の丸、煙硝櫓が築かれ、堀切で各々の尾根の切断が図られている。太鼓丸、二の丸では虎口が確認され、山の西斜面にだけ竪堀が設けられている。石垣は三成段階で築かれたと考えられているが、彦根城築城の際に、ほとんどの石材が持ち去られたため、現在は本丸に僅かに残るのみで全体像は分かっていない。
東側の山下には、大手土塁に囲まれた侍屋敷地が広がっている。その中央の虎口に大手門があったと推定されている。
さらに、大手の内堀と外堀(小野川)との間には、城下町が形成され、商人を含む町人層が居住していたと推測されている。また、南西および西の山下には、三成や重臣の嶋左近の屋敷があったと伝わっている。
三成は、「大一大万大吉」を旗印にし、領国経営では民をいたわる善政を行ったと云われている。徳川方が見た佐和山城内は、実用本位の質素な造りあったと伝わっており、三成の人となりが窺い知れる。

ハイキングコースの案内板より


道 案 内             二の丸北の堀切
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を西に750m程行き外町交差点で右折する。国道8号に入り900m程北上した古沢町交差点の信号を過ぎて佐和山トンネル手前の左側(佐和山美術館の対面)に佐和山城案内板がある。ここから法華丸、女郎谷を経て本丸に登ることが出来るハイキングコースの入口が設けられている。
また、古沢町交差点を斜め左へ進みJRの跨線橋を越え彦根警察署の先の船町東交差点で右折し、北に480m程行って右折する。直ぐにJRの踏切があり、それを越えて左折、200m程先が龍潭寺で、龍潭寺の本堂前より西の丸、塩硝櫓を通って本丸に至ることもできる。        

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発掘の断面図
 
 下段の平坦面と崩落裏込石

下段の残存石垣


上段の崩落裏込石