No25201−07 膳所城 (ぜぜじょう)       

縄張り図(地震後) 天守閣跡の碑

城郭の概要                  
別  名 : 石鹿城
所在地 : 大津市丸の内町・本丸町
築城年 : 慶長6年(1601)
形  式 : 水城
遺  構 : 石垣、移築建物(二の丸隅櫓、大手門などの城門)
訪城日 : 平成23年3月22日

歴   史
慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦に勝利をおさめた徳川家康は、翌慶長6年いちはやく膳所崎に城を築かせた。築城には8人の奉行をつけ、縄張りは築城の名手とされた伊予国今治城主の藤堂高虎があたった。
さて、築城にまつわるエピソードとして、関ヶ原合戦後の守備として逢坂関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に対し、側近の本田正信は瀬田城跡、大江村の窪江城跡、膳所大明神社地の三ヶ所を提案し、大津城は山上から俯瞰され守りのもろさがあり、城地としての地勢から膳所崎の地が最適と言上したと云われている。
築城にあたって「前々崎(膳所崎)普請、大津の家門並びに石共、彼地へ移さる」とあり、大津城の多くが転用されたようである。かくして、築城なった膳所城に最初に封ぜられたのは戸田一西で、慶長6年(1601)(同7年の記録もある。)武蔵鯨井より2万5千石を以って封ぜらた。その後、元和2年(1616)本多康俊が3万石で封ぜられたが、元和7年(1621)子の俊次が家督を継ぐと移封され、代わって菅沼定芳が3万1千石で入封した。寛永11年(1634)石川忠総が7万石で入城しており、20年の間に城主が目まぐるしく交代した。慶安4年(1651)再び本多俊次が封ぜられ、以後本多氏が13代続き明治を迎え、明治3年4月財政難から全国に先駆けて廃城願いを提出し、同月中に認可され解体された。
本多氏は再封の際、7万石で入封したが3代康慶が弟忠恒に1万石を分知し、以後6万石となった。
この間、寛文2年(1662)5月に琵琶湖西岸断層を震源とする大地震が発生し、膳所城は四層の天守が傾き、本丸や二の丸の多くの櫓や多聞が石垣もろとも湖中に崩れ落ちるなど多大な被害を受けた。これを契機として従来の本丸と二の丸をつなぎ広大な本丸とし、三の丸を二の丸として、ここに藩庁や藩主の御殿を移す大改修が行われた。

構造と感想
天守石垣

響忍寺の長屋門
膳所城は、近江から京へ入る東海道および湖上交通を押さえるとともに、大坂方に備える役割を担った城である。一方、琵琶湖に突出し、湖水に洗われる石垣と、その上にそびえる四層の天守や櫓の姿は、東海道筋の名勝として「近江八景図屏風」や「近江名所図会」などに描かれ江戸時代を通じ城下町膳所の象徴とされた。
現状は本丸跡が膳所公園となっているが、当時の遺構は残されていないようである。さらに本丸の南に続く二の丸、三の丸も膳所浄水場となっており原形を留めていない。
なお、膳所城の遺構でよく残されているのが建物遺構で、膳所の町中各所に城門等が移築されているのでご覧になるとよい。また、縁心寺の境内には初代城主の戸田一西をはじめ本多家歴代の藩主の墓がある。
さて、膳所城の縄張りであるが、当初は本丸と二の丸が湖上に突出し、廊下橋によってつながれていた。本丸は東西18間、南北25間で、その南側にL字型の帯郭が付き、本丸の北西部に四層の天守がそびえていた。二の丸は東西38間、南北52間の長方形で、その南側に三の丸があった。そして地震後は、本丸と二の丸が合体され、上記の写真(縄張り図(地震後))の通りとなった。なお、本丸の西側(前面)には方形の郭が設けられていたが、馬出し郭として機能していた。その外側は外郭で上級家臣の屋敷が構えられた。

道 案 内
国道1号の瀬田川大橋西詰めの信号交差点で曲って坂を下り県道102号線の松原国道口交差点に出る。この交差点を右折して浜大津方面に2.2km程行くと本丸町交差点で右側が膳所公園となっている城跡である。左手手前には、大津市科学館や膳所市民センターがある。

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膳所神社表門             膳所神社北門

 
 篠津神社表門            宮八幡神社表門

 
勢多口番所跡           本多神社