No25201−06 窪江城 (くぼえじょう)       

南より本丸を望む

城郭の概要                  
別  名 : 大江城
所在地 : 大津市瀬田大江一丁目
築城年 :
形  式 : 丘城
遺  構 : 本丸、二の丸、石垣、櫓台、堀跡、
訪城日 : 平成22年8月8日

歴   史
窪江城は、建武年間(1334〜38)に佐々木氏によって築城され、勢多判官とその一族が初めて城主となり、のちに足利氏の武将摂津掃部頭が大江・大萱を支配して当城に入ったと云われる。さらに、戦国時代、栗太郡六地蔵城から高野甲斐守慶秀が移ってきたが、同氏の滅亡後の永正年間(1504〜21)に瀬田城主山岡景隆の弟・対馬守景祐が城主になったと伝えられている。
山岡景祐は、兄と同じく六角氏に属していたが、永禄11年(1568)六角氏の居城観音寺城の落城を前に織田信長の軍門に降り、その後は信長に仕え、元亀元年(1570)12月15日に信長より領地安堵の朱印状を受けている。元亀4年(1573)には二条城で挙兵した将軍足利義昭を包囲する信長に従い京都に参陣、さらに天正4年(1567)には摂津石山本願寺を追討するため従軍している。また、天正10年(1582)本能寺の変で信長が光秀に討たれた際、摂津堺から三河国岡崎に帰国する徳川家康を伊賀国境まで守護した。そしてのち豊臣秀吉に仕えたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦に際して、柴田勝家に通じたため、領地を没収され窪江城を追われたようである。そののち徳川家康に仕え駿府に出仕している。

構造と感想
窪江城は、瀬田城の北東1.5kmに位置し瀬田橋や湖南平野を見渡す軍事的要衝の地である。現在は、東レ瀬田工場内で工場南側でJR東海道線と接する付近の小高い丘上にあって、明治22年の東海道本線敷設によって城地の南東部が削られたが、本丸、二の丸が概ね残っているようである。実測調査図や地形図からは、城域の北、東、南側の三方には水路がめぐり、西側には低湿地が広がる堅固な構えが窺える。本丸は約30m四方で周囲を高さ5mの土塁が囲繞し、北西隅に高さ6mの石垣で築かれた櫓台が、二の丸北端にも約10m四方の土壇があり櫓台とされる。
また、本丸と二の丸と北東側に堀跡水路に囲まれた東西約90m、南北約45mの東に細くなる三角形状の平坦地が広がっている。さらに線路南側の工場敷地も城域と思われる。
東レが工場用地として買収後に公園に整備して現状保存しているが、非公開で一般人は見られないのが残念である。公開されることを願いたい。

道 案 内
名神瀬田西ICで高速道路を下り県道57号線を北に400m程進みT字交差点を右折、そして直ぐの神領交差点を左折する。北東方向930m程行くと国道1号の大江三丁目交差点に至る。右折して草津方面の国道1号に入り220m程行った歩道橋のある交差点で左折する。西200m先の突き当たりの若松神社まで行く。神社の北側で鉄道の向こう側の林が城跡である。
工場正門の受付で見学をお願いしたが断られた。また、城跡の西側にも行ってみたがフェンスで囲まれており、フェンス沿いからは草木で遺構は見えなかった。

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