No25381-03 観音寺城 (かんのんじじょう)       

本丸の食違い虎口 平井丸の平虎口

城郭の概要                  
別  名 : 佐々木城
所在地 : 蒲生郡安土町石寺
築城年 : 大永末年〜享録年間(1528〜1532)
形  式 : 山城(標高432.9m)
遺  構 : 石垣、石塁、虎口、井戸、土塁、堀切、
訪城日 : 平成22年1月31日


大手道の高石垣

後藤邸の石垣
歴   史
観音寺城は、佐々木六角氏の居城として築かれた壮大な山城で、日本五大山城の一つに数えられている。その築城時期は定かでないが、建武2年(1335)後醍醐天皇に叛いて京に攻め上った足利尊氏を追って、奥州より遠征してきた北畠顕家軍を阻止しようと、足利方の佐々木氏頼が「観音寺ノ城郭」に布陣したとの太平記の記述が初見で、その後もたびたび陣所が置かれ、「観音寺ノ城」と記載された記録が残るが、六角氏当主の居住する山城としての形が整ったのは、大永の末年から享録年間(1528〜1532)にかけて行われた大修築後と考えられている。また、石垣を多用した姿に整備されたのは、鉄砲に備え六角義賢が弘治2年(1556)より行ったとされる。
佐々木氏は、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏の一族で、皇子の曾孫にあたる成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に土着し、成頼の孫の経方が佐々木庄小脇に居館を構え「佐々木氏」を名乗ったことに始まるとされる。
佐々木氏の興隆の原点は、平治の乱(1159)で平氏に敗れた源義朝に従っていた佐々木秀義は相模に落ち延びていたが、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に一族を率いて加わり、源平合戦で戦功をあげ、長男定綱が近江国惣追捕使に補任され、近江支配の基礎を築き、以後400年に亘って佐々木氏の惣領家が近江守護を勤め、最盛期には佐々木一族が17カ国の守護に任じられていた。
定綱には広綱をはじめ数人の男子がいたが、承久3年(1221)後鳥羽上皇の幕府打倒を目指した承久の乱に際し、惣領家の広綱をはじめ一族の大半が上皇方に付き敗れて斬刑に処せられたため、佐々木惣領家は幕府方に付いた四男信綱の系統に移った。仁治3年(1242)信綱が死没し、佐々木氏は四家に分流し、三男泰綱が惣領家として江南六郡を継ぎ六角氏を称し、四男氏信が長男重綱(大原氏)の坂田郡大原庄と二男高信(高島氏)の高島郡田中郷を除く江北六郡を継ぎ京極氏を称し、分国支配の体制となった。
その後、六角氏は庶子家を巻き込んでの内紛、朝廷や権門寺社、室町幕府といった中央勢力からの影響を強く受け、絶対的な権力で近江一国を統一できず、多様な支配権力の一つとして存在するに留まった。
しかし、室町幕府との関係には密接なものがあり、応仁文明の乱の直後、二度の将軍親征を受けるがこれを乗り切り、その後は逆に幕府とのつながりを強化して近江における地位の安定を図った。特に、定頼(1495-1552)は幕政に深く関わるとともに、京都を追われた将軍足利義晴を援助するなど幕府の後ろ盾として活躍した。
それでも近江国内の在地領主たちと強力な主従関係を結ぶことができず、その関係は永禄6年(1563)の義弼による有力奉行人の後藤賢豊父子の謀殺に対し、在地領主たちが城内の屋敷を焼き払い六角氏のもとを離れた観音寺騒動に如実に表れている。永禄10年(1567)に定められた六角氏式目は互いに式目の条項を守ることを誓約した契約というべきものであった。
翌永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻により観音寺城の支城である箕作城が落ちると、六角義賢・義弼父子は密かに観音寺城を脱出して甲賀に逃れた、以後廃城となった。
なお、義弼は再起を期し六角氏残党を集め鯰江城に入り、元亀元年(1570)信長の朝倉攻めをきっかけに信長に叛旗を翻した浅井長政と結び、さらに本願寺一揆と協力して反信長陣営の一角をになった。しかし、天正元年(1573)朝倉氏、浅井氏がつぎつぎと滅亡、鯰江城も織田軍の攻撃を受けて落城。ついに六角義弼の再起はならず、歴史から消えていった。


平井丸の埋門

権現見付
構造と感想
観音寺城は、湖東平野の中心にある標高432.9mの独立丘陵である繖山の南半分に築かれ、南側に中山道が通り、西側に琵琶湖が迫る立地で、水陸交通の要衝に位置している。また、山上からは、近江一国を見渡すことが出来る、「国に見」の山城でもある。
登城道は幾つもあるが、石寺地区か桑実寺から徒歩で登るルートと、途中まで車を利用して登るルートが一般的である。
城域は山頂部の伝澤田丸や伝三国丸を扇の要として南側斜面に扇を開いた形で広がり、南西と東に伸びる尾根筋上とその間の谷間(本谷)に鱗状に無数の石垣を伴った郭が配置されている。その数一千とも云われるが、正確な数は不明とされる。
城域の中核部は、観音正寺の向かい側にある南西に伸びる尾根筋上で山頂からは相当下った伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりとされ、郭の面積が大きく方形で、大石を使った壮大な石塁が周囲を取り囲んでいる。一方東側に伸びる尾根は、南側をわざわざ削り込んで郭を造り、尾根筋は削り出し状の土塁となっている。削り込みの郭は伝三国丸から北に伝馬渕丸、伝三井丸、伝伊庭丸、伝馬場丸、伝伊庭丸、大見付と連なり、その東端には東方への防御と監視の役目を担ったと考えられている伝布施淡路丸と目賀田丸が構えられている。
本谷には、幾筋もの石段通路が設けられ、その両側には虎口と潜り門を伴う石塁で固められ、石塁の奥にひな壇状の屋敷地が連なっている。観音正寺の下方には、高石垣で広い平坦地を確保した「佐々木の双藤」と呼ばれた後藤但馬守邸や進藤山城守邸が竹林に覆われながらも見事に残っている。
この城は、中世城郭でありながら総石垣造りの城で、伝馬淵丸や大手道にある6、7mもの高石垣、本丸東側の石段中腹に見られる排水暗渠や池田丸の石組水溜など安土城以前の近江における石積み技術の高さを見ることができる非常に重要な遺構とされる。
近年の研究報告では、安土城は「見せる城」、観音寺城は六角家臣が集住する「一揆的な」という評価がなされており、観音寺城には現在の都市近郊で見なれた山の斜面を造成した住宅地を連想させる光景がある。城本来の防禦機能の面からは低い評価であるが、広大な城域のいたる所を石垣で固めたその姿には、圧倒されるとともに、感動せずにはいられない城郭である。訪城には、十分な時間を確保して訪れる価値のある城跡である。

道 案 内
城址碑
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折し、国道8号線に入る。国道8号を11km程北東に行くと五個荘南交差点に至る。その交差点を左折して県道202号線に入り、北西に800m進むと道は右に90度カーブする。そこから140m程先の塚本交差点で左折し、770m程先の信号のある交差点を左手に戻るように鋭角に折れる。その先100m程でY字路があり、右手の林道観音寺線に入り、林道を2.5km程上って行くと観音正寺の駐車場に至る。
そこから徒歩で500m行くと観音正寺で右に折れ本堂に向かって100m進んだ左手にある石段を下りて北西に石垣裾から山道を350m程歩くと観音寺城の主郭部の伝本丸、伝平井丸、伝池田丸に至る。
東側麓の石寺楽市楽座会館前より北に向かい集落を通り抜け、日吉神社横から赤坂道の石段道を観音正寺まで登るルート。西側麓の桑実寺近くの瓢箪山古墳から林道があり、観音正寺下の駐車場まで上るルート。他にも桑実寺や安土城考古博物館の背後から歩いても登れる。どのルートも1時間以上の時間を要する。

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