No25421-04 鯰江城 (なまずえじょう)       

城址碑 虎口の石垣

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 愛東町鯰江
築城年 : 不詳
形  式 : 平城(河岸段丘上)
遺  構 : 切岸(断崖)、土塁、石垣、
訪城日 : 平成22年7月10日     

歴   史
鯰江城は、鯰江氏の居城であるが、当初、鯰江氏は中戸集落に中戸城を構え居城としていたと伝えられ、中戸には小字「城ノ内」の地名が残っている。鯰江氏が中戸城に居していた時代、鯰江には土豪の森氏が森城を築いていたと伝わっている。
鯰江氏が鯰江に居城を構えた年代は詳らかでないが、永禄11年(1568)に近江守護・六角義治が鯰江満介に命じて鯰江城の大改修を行わせている。
永禄11年(1568)9月織田信長に攻められた六角義賢(承禎)・義治父子は観音寺城を脱して、甲賀三雲に逃れていたが、元亀4年(1573)4月に突然、鯰江城に旧臣らと共に立て籠もり、信長と対峙した。これに対し、織田信長は佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせ、天正元年(1573)9月にこれを落城させた。
現地の縄張図 削られた消失した土塁の基底部

構造と感想
発掘された石組暗渠

排水処理施設内に展示された石組暗渠遺構です。
この遺構を見ていると戦国期の高度な土木技術の
存在に驚かされます。                 

鯰江城跡には、落城後に鯰江集落が形成されたため、往時の遺構はほとんど残されていない。
「近江愛智郡志」に収録された図面には、土塁に囲繞された郭が群在し、それらを取り囲むように大きな外堀が描かれている。さらに外堀の西側に方形に区画された「士屋敷」と記された郭群が構えられている。
この士屋敷の一角で昭和62年(1987)に愛東町教育委員会により発掘調査が実施され、深さ2.5m、幅7mにも及ぶ堀が検出された。城内では掘立柱建物、竪穴状土抗、石組暗渠などが検出され、出土した遺物は二つの年代を示し、古い段階が15世紀末から16世紀期初頭、新しい段階が16世紀中頃で、土豪・鯰江氏の居城時代と、六角父子入城時に改修されたことを示しており、史料と一致している。
また、図面の北西側三ヶ所に遠見櫓と記された方形区画が描かれている。これらは信長の築かせた付城と考えられている。

道 案 内            
名神八日市ICを出た国道421号の八日市IC交差点を東に2.4km程行った御園交差点を左折する。国道307号に入り北に道なりに1.7km程行った妹南交差点を左折する。県道217号線に入り西に1.1km行った右手の道路沿いに城址碑がある。その断崖上の一帯が城跡である。

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