No25402-04 箕作城 (みつくりじょう)       

主郭下の石垣 鉄塔の建つ主郭

城郭の概要
別  名 : 清水城、清水山城
所在地 : 神崎郡五個荘町山本
築城年 : 文明3年(1471)
形  式 : 山城(標高324.7m)
遺  構 : 石垣,、土塁、竪堀、畝堀、
訪城日 : 平成22年9月26日

歴   史

応仁の乱後の混乱した近江で、六角高頼に対抗するため、幕府側が擁立した佐々木政堯(佐々木高頼の従弟)が近江に攻め入った際に、籠城したのが清水城で、これが箕作城の前身とされているが定かでないようだ。
その後、天文19年(1550)には、六角定頼が観音寺城の支城として改修したとされる。
永禄11年(1568)室町将軍・足利義昭を奉じて上洛をめざす織田信長の近江侵攻に対し、六角義賢(承禎)は観音寺城に加え、箕作城と和田山城の防備を固めて、信長を迎え撃った。箕作城には吉田出雲守重光・建部源八郎秀明・狛修理亮・吉田新助など3千余の兵が籠城したが、佐久間信盛・木下(豊臣)秀吉・丹羽長秀らの信長軍に攻められ、わずか4時間で落城した。箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。これ以降、箕作城は廃城になったとされる。


構造と感想
城址碑
箕作城は、佐々木六角氏の本城・観音寺城と中山道を挟んで相対する清水山の山頂に築かれた山城でる。清水山の南方峰続きに箕作山と呼ばれる山があり、間違わないよう注意が必要である。
城跡は、鉄塔の立つ山頂の主郭と北東へ続く細尾根の段状連郭からなっている。主郭は20m×10m程度で、段郭はさらに小さく、織田軍の主力が攻撃をしたとされている割には、小規模であり、また、堅固な守りの城郭とも思われない。いずれにしても手入れされず遺構確認のままならない城跡である。
なお、滋賀県保勝会によって大正11年に建てられた城址碑は、山頂から北東尾根を下り二つ目の鉄塔を越えた左手奥にあるが、城外だそうである。

道 案 内
国道8号の神崎中央病院の北側角の信号交差点を東に入り、東海道新幹線の高架をくぐると300m程先の右手道端に鉄塔が立っている。この鉄塔を越えた直ぐ右側に山へ向かう道がある。この道へ入り70m程行った突き当たりから山道を登って行くと3、40分で城跡に至る。
なお、登り始めに「平成記念の森」の看板が立っているところを右手に入っていくと「箕作館跡」の山本地区の石垣遺構を見ることができる。

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