No25402-01 和田山城 (わだやまじょう)       

北櫓台下の空堀 北櫓台の南切岸

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 神崎郡五個荘町和田、能登川町神郷
築城年 : 戦国時代
形  式 : 山城(標高180.1m)
遺  構 : 土塁、空堀、竪土塁、竪堀
訪城日 : 平成22年9月26日

歴   史

和田山城は、近江守護佐々木六角氏の居城・観音寺城が構えられた繖山の北東約4kmに位置する和田山の山頂に築かれている。和田山は、愛知川に突出する小独立丘で、東側に大河愛知川が北流し、南側を大同川に囲まれた要害地形で、山頂からは江北までも遠望することができ、観音寺城の北方を防御する出城として築かれたと考えられている。
観音寺城の周辺には、この和田山城の他に繖山の北東端に佐生城、南方には箕作城小脇山城布施山城長光寺城、西方には円山城などの支城群が配置されている。
和田山城の城主は、六角政頼の三男和田和泉守高成を祖とする和田氏であったと伝えられている。永禄11年(1568)9月織田信長の近江侵攻に対して、六角承禎・義弼は和田山城を最前線と見て馬渕山城守宗綱、同兵部少輔健綱、同右衛門大夫賢久、同定房・家盛、松原弥兵衛賢治、木村筑後守重孝、宮木右兵衛大夫賢祐、和田嘉助、同新助等の究竟の軍勢を6千人を入城させ守らせたが、信長は思いの外、隣の箕作城を攻め、和田山城へは押勢として美濃三人衆(氏家卜全、安藤守就、稲葉一鉄)が差向けられた。箕作城は熾烈な夜襲によって落城し、これを知った六角勢は観音寺城、和田山城から退散し落城した。


構造と感想 南南東角の虎口
和田山城は南北50m、東西25m程の単郭式山城で、南北の端に古墳を利用したと思われる規模の大きい櫓台が構えられ、これらを結ぶように東と西面に土塁を築いている。その東西の土塁から郭内に突出させた土塁が食い違いの仕切り土塁となって、郭内を分割している。そして東から西に突き出た土塁は、南側に空堀を伴っている。
南櫓台の南1、2m下方には、土塁で囲まれた幅10m程の半円形の小郭が張り出しており、主郭虎口の防備を固めている。
なお、主郭の西側斜面には竪土塁や竪堀で仕切られた帯郭が認められる。
また、主郭の北側も段々に削り出されているように思えるが、城郭遺構か判別できないようである。
遺構はよく残っているが、ブッシュや灌木等が繁茂しており冬枯れ期でないと観察し難い。

道 案 内
国道8号を彦根方面から来て愛知川を渡った直ぐの簗瀬交差点を右折し県道52号線に入る。西に2.1km程道なりに進みT字路を右折する。県道203号線に入り北に720m程進み山沿いを抜けた最初の小さな十字路で右折し農道に入る。車がやっと通れる農道を東に200m程行った突き当たり右奥に神郷墓地がある。駐車場もある。墓地の南端の奥にしっかりした山道があり左手に登って行くと20分程で城跡に至るが、ピークから下りになる辺りでブッシュを掻き分け左奥に入らないと通り過ぎてしまうので注意が必要である。
なお、南麓の和田神社から登るルートもあるようである。

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