No25204−10 長光寺城 (ちょうこうじじょう)       

一の郭南西面の高石垣と虎口の石列 一の郭北東下段の井戸跡

城郭の概要                  
別  名 : 瓶割山城
所在地 : 近江八幡市武佐町、長光寺町、長福寺町、八日市市上平木町
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高234m)
遺  構 : 石垣、堀切、土橋、井戸、
訪城日 : 平成22年11月14日

歴   史 現地の縄張図
応仁の乱さなかの応仁2年(1468)に近江守護佐々木六角高頼と対立した佐々木四郎政堯がこの長光寺城に拠って戦ったとの記録が残り、その頃に築城されたと考えられているが、詳細は定かでない。
その後は、六角軍や織田軍がこの城に拠っている。永禄11年(1568)には織田信長の近江侵攻に対して六角方が籠城し、元亀元年(1570)4月には、越前朝倉攻めにより浅井長政の離反を招き窮地に陥った信長が江南の守りを固めるために、安土城に中川重政、宇佐山城に森可成、上永原城に佐久間信盛、そしてこの長光寺城に柴田勝家を配した。これに対し旧領回復を目論んでいた六角義賢は、この機を逃さず、旧臣や一向宗徒らを糾合して挙兵、野洲川下流域に攻め入り、5月には守山城攻め、6月には野洲川の合戦に及ぶも敗れたが、この間に長光寺城にも攻めかかっている。
この際、六角勢によって水の手を切られた長光寺城内は水不足に陥り、これに窮した勝家は残り僅かな水の入った甕(かめ)を自ら叩き割りもう後がないことを将兵に思い知らせ、決死の覚悟で六角勢に挑みかかり、遂にはこれを打ち破ったとする「甕割り柴田」の武勇伝を生んでいる。
なお、天正4年(1576)の安土城築城の頃には廃城になったと考えられている。

構造と感想


三の郭の土塁
長光寺城は、標高234m、比高136mを測る独立丘である瓶割山の山頂に築かれた東西67m、南北55mの不定六角形を呈する主郭(一の郭)、その北と東に帯郭、その東側にはさらに2、3段の郭が取り付けられている。この主郭から北、東、南へと伸びる三方の尾根上には土塁等を伴った郭を配する複合連郭式の山城である。
山頂の「一の郭」の南西端には、虎口を形成したと思われる石列があり、その南側の堀切を下りて右に回り込むと高さ6mもの高石垣が築かれ、これらの遺構から当城の大手と推測されている。また、堀切には土橋が架かり南側の「二の郭」へ繋がる。一の郭の北側下方には、長辺48m、短辺30mの長方形で三方に土塁が巡る残存度の良い米蔵と云われる「三の郭」が連なる。さらに西側山麓には根古屋と考えられている高さ3.5mの土塁囲みの屋敷地が残っており、これは室町幕府第12代将軍義晴が御座した仮の御所の可能性が高いとされている。
なお、城内には複数の井戸跡が残るが、「瓶割り柴田」の逸話を生んでおり、水量は十分でなかったのか、不思議を感じる城跡である

道 案 内
根古屋の土塁
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折して国道8号線に入る。国道8号を3.3km程北東に行くと六枚橋交差点で、その先380mで右折すると工場団地内道路で、南東に580m程直進した突き当たりを左折する。200m程行って右折し山裾の道に入る。山裾を南に90m程進むと左手が日吉神社の参道で、長さが170m程ある。日吉神社社殿から右奥の駐車場外れ辺りから山道に入る。
             

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