No25381-02 安土城 (あづちじょう)       

天主の南面石垣 天主穴蔵の礎石

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 蒲生郡安土町下豊浦、神崎郡能登川町南須田
築城年 : 天正4年(1576)
形  式 : 山城(標高198.9m)
遺  構 : 石垣、天主台、虎口、堀、井戸、大手道
訪城日 : 平成25年2月9日

歴   史

安土城は、織田信長が天正4年(1576)4月に築城を開始し、天正7年(1579)5月に一応の完成を見た総石垣造りの壮大な城郭である。
織田信長は、天文3年(1534)に尾張国那古野城(勝幡城説もある。)で織田信秀の二男として生まれた。信長の生家「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣で分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。
天文20年(1551)父・信秀の病没により織田家を継ぎ、同族間の内訌を制して、永禄2年(1559)尾張一国を統一した。翌、永禄3年(1560)5月、駿河・遠江・三河を支配する今川義元が尾張国に侵入、寡兵の信長は桶狭間に今川軍を奇襲し、今川義元を討ち取った。永禄5年(1562)、桶狭間の戦い以降弱体化した今川氏の支配から独立した三河の松平元康(後の徳川家康)と「清州同盟」を結び、背後を固めると、永禄6年(1563)居城を清洲城から美濃攻略の拠点として小牧山城へと移した。また、永禄7年(1561)には妹・市を北近江の戦国大名・浅井長政に嫁がせ、縁戚関係を結び、美濃攻めを本格化させた。永禄10年(1567)8月、美濃・稲葉山城(後の岐阜城)に斎藤龍興を攻め、伊勢長島に敗走させ、美濃国を手中に治めた。信長は、稲葉山城に入城し、居城を小牧山城から移し、また、井ノ口を岐阜と改称した。同年11月には僧・沢彦から与えられた印文の「天下布武」の朱印を用いはじめ、この頃から信長は天下統一を意識していたとされる。
永禄11年(1568)信長は足利義昭を奉じて京へ上り、第15代室町将軍に就けたが、天正元年(1573)には仲たがいから将軍・足利義昭を追放し、事実上の天下人となった。同年、姉川の戦い(元亀元年、1570)以来、信長を苦しめてきた浅井・朝倉氏を滅ぼし、さらに、天正3年(1575)には、宿敵の武田氏を長篠の戦いで破った。
同年11月28日に突然これまでの本拠地の岐阜城と家督を嫡男・信忠に譲ることを宣言し、自らは翌天正4年(1576)正月中旬に総奉行を丹羽長秀に命じ、「天下布武」の拠点として琵琶湖東岸の安土山に史上初となる総石垣造りの壮大な城郭の築城に着手した。3年5月の歳月をかけて一応の完成をみ、天正7年_(1579)5月11日に入城した。
天正5年(1577)信長は安土に「安土山下町中掟書」を発布、掟書は13ヶ条からなり、楽市楽座を宣言し様々な負担の免除、治安維持、商人の債権保護、城下への集住を促す内容でこの掟が織豊期における城下町形成時の掟として踏襲された。
しかし、天正10年(1582)6月本能寺の変の混乱の中で、信長が近世城郭の先駆けとして築いた地上6階、地下1階の天主と本丸部が炎上、焼失した。その後も織田氏の天下を象徴する城として、二男・信雄や織田信忠の嫡男・三法師が入城するが、天正12年(1584)に三法師が坂本城にうつされ、天正13年_(1585)信雄が小牧長久手の戦いでに秀吉に屈し、織田氏の天下が終焉すると安土城は廃城になり、信長の菩提を伴うハ見寺のみが城内に残り現在に至っている。
一方、大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、昭和15、6に天主・本丸の調査、仮整備が行われ、昭和35年以降に本丸周辺から黒金門にかけて石垣修理が行われた。平成元年(1989)からは20年間に亘り「特別史跡安土城跡調査整備事業」が実施され織田信忠邸跡から大手にかけて復元整備が行われた。

黒金門内の溜まり 大手道

構造と感想
安土城は、これまでの城郭のセオリーで推し測れない特異な城郭である。
その一端を紹介すると南側の山麓に設けられた大手口である。内裏の御門と同様に平入り門を三門(中央に大手門、両側に脇門)構える構造で、正親天皇・誠仁親王の行幸を想定して造られたとされる。次に大手道だ。大手門から異例の一直線で180mも一気に登る。伝武井夕庵邸前で左に折れ、伝織田信忠邸に突き当たる。そこで登城道は左右に分岐し、左手が伝織田信忠邸跡を通り黒金門に至るルートで、右手が主郭部裾を通り伝本丸南虎口に通じるルートである。大手道は右手ルートと考えられている。大手道の幅は、約8mと広く、その両側に石敷側溝と石塁を伴い、石塁の奥はひな壇状の屋敷地となっている。屋敷地の伝羽柴秀吉邸跡や伝前田利家邸跡の発掘では、武家屋敷の建物の全体像が明らかになり注目されている。現地には詳しい説明板が設置され、CG再現された羽柴邸の姿も見られる。
登城路の左ルートを進むと黒金門で石塁の間の石段を登りながら二度折れ曲がり二の丸西下の溜まりに入る。さらに幾重にも折れ曲がりつつ、二の御門、三の御門を経てやっと本丸西虎口に至る。その先は信長が選ばれた側近達と日常生活を送っていたとされる安土城のまさに中枢部となる。その中枢部は、高く聳える天主を中心に本丸、二の丸、三の丸等で構成され、東西180m、南北100mに及び、周囲は高く頑丈な石垣で固められ、周辺から屹立した領域となっている。中枢部の高石垣の裾には、幅2〜6mの犬走りがめぐり、要所には隅櫓・櫓門等で守られた虎口が設けられ、強固な防御性を誇っている。
天主台の上には、五層七重の金色、朱色、青色等の極彩色に彩られた瓦葺きの巨大な天主が聳え建ち、本丸には天皇の間や御幸の間、南殿を備える後の内裏に設けられた清涼殿と同じ平面をした御殿が、三の丸には江雲寺御殿が建てられていた。二の丸には豊臣秀吉が建てた信長廟がある。
中枢部から四方八方に伸びる尾根には、「平」と呼ばれる砦が各所に設けられ、主要な家臣の屋敷が構えられていた。北の尾根には八角平や薬師平が、東の尾根には馬場平、神様平、御茶屋平が、南の尾根には椿平が、北西の尾根に七兵エ平が築かれていた。南西の尾根には、百々橋口道と呼ばれる登城路が通り、中腹に信長が建立したハ見寺跡があり、現在も築城当時の建物とされる三重塔と仁王門が残っている。
これらの他に山裾にも、谷筋にも、尾根の斜面にも、いたる所に石垣で固められた郭が築かれ、その遺構が今もひっそりと残っている。まさに全山が城郭の安土山である。見学ルートを少し外れ山中に入れば静かに眠る苔むした石垣等の遺構を見ることが出来る。
是非、一度は訪れていただき、信長の絶大な権力を肌で感じていただければと思う。

道 案 内
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折し、国道8号線に入る。国道8号を北東に1.3km程行くと日野川を渡り東川町交差点に至る。東川町交差点を左折し、県道326号線に入り、3.9km程先の小舟木町交差点で右折する。県道2号線_(朝鮮人街道)に入り、道なりに6.4km程進むと安土城址前交差点に至る。その左手が安土城址大手前である。
主郭北面虎口 八角平北虎口

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現地に掲示された縄張図