No25343-12 | 上永原城 | (かみながはらじょう) |
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城址碑 | 城址の運動場部分 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : 永原城 |
所在地 : 野洲郡野洲町上屋 |
築城年 : 室町中期 |
形 式 : 平城 |
遺 構 : |
訪城日 : 平成25年8月4日 |
◆ 歴 史 |
上永原城は、永原氏代々の居城の永原城と考えられており、その築城年代は室町中期とされる。 その永原氏の出自は明確ではないが、先祖は関東の出身とされ、本姓を藤原氏と称して、藤原鎌足の後裔と云われる。永徳(1381〜84)・明徳(1390〜94)の合戦で永原大炊助宗行が軍功をたて野洲郡内に十八郷の増地を受けて以降、武威をますます増し、野洲・栗太・甲賀の一部まで勢力を拡大し、大永年間(1521〜28)頃には佐々木氏支流・馬渕氏との被官関係を脱して、近江守護佐々木六角氏と直接主従関係を持つようになり、天文年間(1532〜55)には六角氏と共に京都に出陣するなど家臣として重きをなしていく。 しかし、永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻に際して、永原氏一族の多くは信長に帰参するが、永原越前守重虎は信長の調略に応ずることなく出奔し、嫡家は断絶してしまった。 元亀元年(1570)には織田信長の重臣・佐久間信盛が永原城に在城しているが、文禄年間(1592〜96)には廃城となって、芦浦観音寺の預かるところとなった。 |
◆ 構造と感想 |
上永原城は、現在の祇王小学校の敷地一帯にあったとされ、その根拠として小字名「与六郎」が信長公記の巻十に「永原の佐久間与六郎所」と記される場所にあたると考えられること
や 明治初期の地籍図に堀の痕跡が残り、複郭方形居館が想定できることなどが挙げられている。さらに、平成14年(2001)に伝二ノ丸跡とされる同校南東の農地で宅地化に伴う発掘調査が行われ、13世紀にさかのぼる土塁と堀跡が検出され、永原城がこの付近に位置したことが確かなものとなったとされてる。 しかし、今日では移転してきた祇王小学校の校庭や宅地化で城の遺構は痕跡すら残っていない。校舎と運動場の間にある城址碑がなければ、現地で城跡とは気付ない。 なお、永原城の位置を以前は永原御殿跡を比定する考え方が支配的であったそうである。 |
◆ 道 案 内 |
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で左折し国道8号線に入る。国道8号を南西に3.3km程行って左手に西池のあるT字路を右折し、県道32号線に入る。北西に道なりに780m程進みJR跨線橋を上らずに手前で左手の側道に入って240m程先のT字路を左折する。鉄道沿いに450m程行くと右手に踏切があり、それを渡り、300m程先の左手が祇王小学校で校舎とその両側(宅地と運動場)が城跡である。 |
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