No25201−11 | 宇佐山城 | (うさやまじょう) |
二の丸東側帯郭の石垣 | 虎口の枡形 |
◆ 城郭の概要 | 二の丸北方向 |
別 名 : 志賀の城 | |
所在地 : 大津市錦織町字牛尾 | |
築城年 : 永禄13年(1570) | |
形 式 : 山城(標高335m) | |
遺 構 : 石垣、堀、土塁、升形、武者隠し | |
訪城日 : 平成24年3月17日 |
◆ 歴 史 |
宇佐山城は、永禄13年(1570)2月に織田信長が家臣の森可成に築かせた山城で、この際に京都と大津を結ぶ街道を監視するため、今道越を付替え宇佐山城の麓から山中へ直結させている。 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。 元亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、自身は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。 その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆方の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。 その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日比叡山延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)明智光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配。これにより宇佐山城は廃城になったようである。 |
◆ 構造と感想 |
宇佐山城は近江神宮の西に聳える標高335mの宇佐山山頂に築かれている。近江神宮の西隣りに鎮座する宇佐八幡宮の参道を登って行き、右手の「金殿井」を過ぎたY字路で右に入る。杉の巨木の奥に大きな道案内の看板がある。その奥突き当たりから山に入り直ぐ尾根に出て左手の尾根筋を20分程登って行くと城跡に至るが、道が分かり難いので、小学生が案内板を要所に設置してくれており、見落とさずに行けば容易に城跡に行き着くことができる。 |
◆ 道 案 内 | 本丸北側の武者隠し |
浜大津より国道161号を北進し柳が崎交差点で左折し、県道30号線に入る。西に参道道を930m程先の近江神宮鳥居前で左折して県道47号線に入る。道は直ぐに右に90度曲り130m程先を左折して橋を渡り切って直ぐを右折する。細い道を290m程上って行き右にカーブし、再び橋を渡り坂道を道なりに上ると右手に車止めのある参道前に至る。そこを通り過ぎて右折し上って行くと宇佐山八幡宮です。 |
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