No25201−14 | 壺笠山城 | (つぼかさやまじょう) |
帯郭の石垣 | 主郭虎口の石段 |
◆ 城郭の概要 | 西側の帯郭 |
別 名 : | |
所在地 : 大津市坂本町字比叡山 | |
築城年 : 元亀元年(1570) | |
形 式 : 山城(標高422.2m) | |
遺 構 : 虎口、石積み、石段、 | |
訪城日 : 平成22年11月6日 | |
◆ 歴 史 |
壺笠山城は、元亀元年(1570)に織田信長と浅井・朝倉連合軍が「志賀の陣」で戦ったときに、連合軍側が立て籠もった比叡山中の山城(陣城)の一つである。 元亀元年(1570)4月信長は、上洛の命に従わない越前の朝倉義景を攻めたが、江北の小谷城主浅井長政に背後を衝かれ、慌てて京都へ逃げ帰った。信長はいったん岐阜城へ帰陣、体勢を立て直すこととし、そこで同年5月宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川清秀らを配置して江南の守りを固めた。 亀元年(1570)6月28日の姉川合戦で浅井・朝倉連合軍は決定的な打撃は受けておらず、大坂本願寺と手を結び、湖西路を南下し、同年9月16日坂本に布陣した。9月20日宇佐山城主森可成と近江にいた野府城主織田信治、青地城主青地茂綱らと坂本口で激突、三人を討ち取り、宇佐山城に攻め上がり、さらに21日逢坂峠を越えて醍醐、山科を放火するなど、入洛の機会をうかがった。 摂津で三好三人衆と戦っていた信長はこの報せを聞き、21日急きょ明智光秀を帰洛させ二条城を守らせ、自身も23日に摂津の陣を引き払い京に戻り、翌24日洛東の白川から滋賀穴太口に布陣、信長は宇佐山城に入り対峙した。一方、浅井・朝倉軍は、比叡山延暦寺の後方支援を受け比叡山に登り、「はちが峯」「あほ山」「つぼ笠山」に陣取り、洛外の各所を放火し入洛する姿勢を示した。 その後、2ヶ月間に亘り両軍の睨み合いが続き、戦線は膠着状態に陥った。 しかし、三好三人衆はしだいに京都に進攻し、また近江では一向一揆の動きが活発化し、六角氏もゲリラ戦を展開しており、信長は志賀での長滞陣は不利と考え、和睦工作を行った。11月21日に六角承禎、三好三人衆の篠原長房との和議がととのった。浅井・朝倉との和議も朝廷、幕府の仲介ですすめられ、勅使や将軍義昭が志賀に下って調停を行い、12月14日に雪を心配した義景が和睦に応じ、12月23日には長政との和議もなった。 この和議により12月14日信長は「陣払い小屋悉く放火」して永原城に退き、15日には朝倉義景も「青山以下小屋悉く陣払い放火」して越前に帰ったとされる。 その後、信長は明智光秀を宇佐山城に入れ、湖西の土豪たちを懐柔させ延暦寺との間を分断、元亀2年(1571)9月12日延暦寺を焼き打にした。元亀3年(1572)光秀は坂本の地に坂本城を築き、志賀郡5万石を支配した。 |
◆ 構造と感想 |
「志賀の陣」における浅井・朝倉軍の陣所のうち位置が確かなのは壺笠山城のみである。壺笠山は、滋賀穴太から比叡山を経て京都へ通じる「白鳥越」を押さえる要衝に位置し、壺笠山城はその山頂部に築かれている。 |
◆ 道 案 内 |
西大津バイパス南滋賀ランプを下りて東に510m程行った県道47号線の高砂東交差点を左折し、北に2.2km程行った(京阪電車穴太駅を270m程越えた地点)T字路で左折して急な登りの細道に入る。西に細道を進むと平子谷墓地が広がっている。一番奥まで行き右側の駐車場に駐車する。 林道が奥まで続いているが少し行くとチェーンが張ってあり、車両は通行止になっているので、駐車場から徒歩で四ツ谷川沿いの林道を1.3km程行き四ツ谷川を渡る。川を渡ってさらに250m程行くと左手に戻るように上りの林道が分岐している。この分岐した林道を110m程登ると峠で20m程先の右手山裾にある登り口の目印テープ等を探す。目印のある所から山道に入り、南西に170m程登ると尾根に出る。左手東方向に尾根筋を100m程辿れば壺笠山城跡に至る。(なお、右手西方向に尾根筋を200m程登れば白鳥山(城跡)である。) |
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