No25206−04 青地城 (あおじじょう)       

一ノ丸西側土塁 一ノ丸南側堀切

城郭の概要                  
別  名 : 部田城(へたじょう)
所在地 : 草津市青地町
築城年 : 鎌倉時代中期
形  式 : 平山城
遺  構 : 土塁、堀、堀切
訪城日 : 平成22年8月8日

歴   史
青地氏は、佐々木氏支流の馬淵氏を祖とする。馬淵氏は、佐々木定綱の五男広定が蒲生郡馬淵庄を領して馬淵氏を称したことに始まる。この広定の四男基綱が鎌倉時代中頃に青地右馬助の養子となり青地氏を継ぎ、その子・忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配したと伝えられる。しかし、青地氏の前身ははっきりしておらず、この地域が志津庄と呼ばれていたころの荘園領主とされる古代豪族小槻山君の荘園を預かる荘官を興起とするのでないかと思われている。
佐々木系になった青地氏は、金勝・田上・信楽方面と東海道・東山道、さらに琵琶湖岸の港を結ぶ交通の要衝を押さえ、また水利に恵まれた豊かな生産力を誇る領地を背景に勢力を振るい、忠綱の子・冬綱は近江守護代にもなり、佐々木六角氏一門の中でもとりわけ重きを成すようになっていった。
南北朝の動乱においては、六角氏に従って各地を転戦し、当主重頼が戦死している。戦国時代の永正4年(1507)には、家督争いで京を逃れた管領家の細川澄元を青地城に迎え入れ、甲賀の山中為俊の許へと送り届ている。戦国時代末期、蒲生氏から入って青地氏を継いだ茂綱は、永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻によって六角氏が没落すると、父蒲生定秀らとともに信長に臣従した。元亀元年(1570)9月信長と対立する浅井・朝倉勢が3万の大軍で湖西を南下し、坂本口へ押し寄せると、森可成、織田信治らとともに茂綱は宇佐山城を出て迎え撃ったが、森可成、織田信治、青地茂綱らは討ち死にした。
その跡を継いだ嫡男・元珍は、茂綱のこの功により青地城主に封じられ、佐久間信盛の与力となった。ところが天正10(1582)信長が本能寺において明智光秀に討たれると、元珍は織田信孝に仕えるが、翌11年(1583)に信孝が羽柴秀吉に滅ぼされると、元珍は流浪の身となった。その後、加賀前田家に仕え二千石を給され、子孫は代々加賀藩士として続き明治維新を向かえた。

構造と感想
志津小学校のある小高い丘が青地城跡であり、周囲のいずれの方向も見渡すことができたとされるが、現在は土塁の最高所に立っても樹木に覆われ、また建物もあり見通しは利かない。
明治37年2月に小学校建設に伴い行われた測量の実測図面が残されているが、その図面には南北に並ぶ土塁に囲繞された二つの郭とその東側に濠が廻る島状の郭が描かれている。また、北面に広がる城池の中央には長土橋が架かっている。
しかし、その後の小学校建設や増改築により南側の一ノ丸のみが当時の面影を留めるのみで、城池も東側半分が埋め立てられ駐車場や建物敷地になり土橋は消失、濠が廻る三ノ丸も消失している。
しかし、一ノ丸に残る巨大な土塁に堀切は見応えがある。この郭が残ったのは、青地城主の墓石(宝匡印塔)が祀られているからかと思える。

道 案 内
 一ノ丸の青地氏墓碑
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道1号方面に860m程走ると国道1号に下りるランプがあり、左手に下り国道1号に出る。国道1号を南西方向の大津方面に4.3km程行った草津三丁目交差点で左折して県道2号線に入る。県道2号線を道なりに1.7km程行くと右手に池があり、そこの歩道橋手前を右に入っると志津小学校で学校敷地が城跡である。
              

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