No25483-6 小谷城 (おだにじょう)       

鐘丸の石垣 大広間の虎口

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡湖北町伊部、郡上他
築城年 : 永正13年(1516)〜大永4年(1524)
形  式 : 山城(標高(394m)
遺  構 : 大堀切、石垣、石塁、土塁、虎口、竪堀
訪城日 : 平成22年3月27日 最大の曲輪・大広間

歴   史

江北を支配した戦国大名・浅井氏三代の居城で、日本五大山城(春日山城、月山富田城、観音寺城、小谷城、七尾城)の一つに数えられている。
戦国期中頃に守護大名・京極氏の家督争いに乗じ、家臣であった浅井亮政らが国人一揆を起こし、亮政は次第に国人の盟主と目されて台頭する。
亮政が永正13年(1516年)に長浜平野の北東隅に突き出した伊吹山系の一支脈である小谷山の最高峰に砦を構えたのが小谷城の最初とされ、その後、勢力が大きく飛躍する過程で、次第に城域が拡張され整備されたと考えられている。
天文3年(1534)に亮政は、京極高清・高延父子を清水谷の小谷舘で饗応し、執権としの江北支配を確立した。長政の時代になると京極氏の消息は消え、戦国大名として自立したとされている。
この浅井長政に対し、織田信長は天下統一を目指し近江を掌中に納める必要から妹お市を嫁がせ同盟するが、元亀元年(1570)4月信長は意に従わない朝倉義景を討つため、越前金ケ崎、手筒山の砦に侵攻した。これに対し浅井長政が反旗を翻し、信長軍の背後を突いたが討ち逃し、同年6月織田・徳川連合軍を朝倉氏の救援を得て姉川で迎え撃ったが敗北。その後、天正元年(1573)に朝倉氏を滅ぼした織田信長は、越前より折り返し小谷城を攻撃し、浅井長政は赤尾屋敷で自刃、浅井氏はほぼ50年で滅亡した。
浅井氏滅亡後の江北12万石は羽柴秀吉に与えられ、秀吉は今浜を長浜と改め、長浜城を築城して移ったあと小谷城は廃城となった。


構造と感想
小谷山の山頂には大嶽砦があり当初の主郭とされ、そこから南に馬蹄形に伸びる二筋の尾根上に多数の郭を構え、谷間(清水谷)には根小屋を設けている。しかし、防御空間(山上)と居住空間(山下)が完全に分離した構造ではないようである。発掘調査の出土遺物から山上においても居住空間が設けられていたと考えられている。
小谷城の本城域は、山頂から南に張り出した東側の尾根上で、北から山王丸、小丸、京極丸、中丸、鐘丸、大広間、桜馬場、御馬屋敷、お茶屋、番所が連続する連郭式の構造で、各所に石灰岩の石積みが多く用いられ、安土城に先行する築城技術を見ることが出来る。
しかし、中丸と鐘丸の間に大堀切があり、この上下で構造上に違いがある。鐘丸から下方は郭の東側を通路が通っているが、中丸から上方は郭の中を通路が突っ切る形となっている。そして、大堀切で本城域が分断され、それぞれに主郭に相当する郭、つまり下方では鐘丸と上方では京極丸が併存する特異な構造となっている。
これについては、滋賀県文化財保護課の北村圭弘氏が京極氏と浅井氏の関係が小谷城の構造に反映したものとの論説されている。
浅井氏は小規模な戦国大名でありながら、歴史にこれほど名を止めた戦国大名も珍しい。その歴史に思いを馳せながら、広大な城跡と山上からの絶景が楽しめる。また、桜花の季節に訪ねるのも良い城跡だ。

道 案 内
山王丸の大石垣
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点を右折し、北に県道510号を道なりに6.5km程行くと国道365号の郡上南交差点に出る。そこを右折し東に380m程行き左手にある小谷城の大きな看板の所で左折する。後は山裾まで行き斜め左手方向の林道へ入って、林道の終点まで上っていく。終点の100m程手前に駐車場がある。
林道終点の右手直ぐが小谷城の番所跡で北端の六坊跡まで1km程に亘り城域が続く。なお、南の直ぐに金吾丸、さらに1km程下方に出丸がある。

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