No25203-14 長浜城 (ながはまじょう   

城址碑と復興天守 天守台

城郭の概要
現地の推定復元図
別  名 : 今浜城(前身名)
所在地 : 長浜市公園町
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(水城)
遺  構 : 天守台、井戸跡、石垣、外堀、移築門      
訪城日 : 平成22年4月10日      

歴   史
元は今浜といい、佐々木高氏(京極道誉)が室町始めに出城を築き、家臣の今浜氏が守将として在城したと伝え、戦国初期には京極高清やその重臣・上坂信光が居城として使用していた。
天正元年(1573)9月江北の戦国大名・浅井氏を滅ぼした織田信長は、その旧領・江北3郡を戦功のあった羽柴秀吉に与え、大名に取り立てた。秀吉は、いったん小谷城に入ったが、翌年から湖岸の「今浜」に築城を開始し、地名を「長浜」と改め、そこを居城とした。城の完成は、天正3、4年(1575、6)頃とされている。
秀吉は、天正10年(1582)6月の「本能寺の変」直後まで、長浜城主であったが、同月の清洲会議によって柴田勝家の甥・勝豊が第二代の城主となった。しかし、勝豊は、11月には秀吉に下り、翌天正11年(1583)の賤ケ岳合戦では、秀吉が陣所として利用している。
天正13年(1585)閏8月から秀吉の家臣・山内一豊が3万石で第三代城主として入城、5年間在城したが、遠州掛川に移封となって後は、城主不在となり荒廃したと推定されている。
慶長11年(1606)大坂の豊臣秀頼を包囲するため、徳川家康は異母弟の内藤信成を4万石で第四代城主とし、入城にあたって美濃、飛騨、近江三国の住民を動員した「天下普請」で改修が行われた。その子・信正が第五代城主となって「大坂の陣」を迎え、元和元年(1615)の大坂夏の陣後、信正が摂津高槻に移封となり、長浜城は廃城となった。
長浜城の建築木材や瓦、石垣は、彦根城築城に使用されたと伝えられる。

構造と感想
現在、復興天守(長浜城歴史博物館)や国民宿舎豊公荘が建つ周辺が長浜城の本丸であった。本来の天守は、模擬天守の北西50mにある土壇上に構築されていた。また、本丸の南東側にあるテニスコート、プール、明治山の周辺が二の丸と推定されている。
この連郭式の本丸、二の丸を取り囲むように東側と北側にかけて内堀が巡っていたが、現在は埋め立てられ湖岸道路となっている。
その外側は、三の丸で家臣団が集住していた。明治初期の地積図には、小字として殿町、内殿町、伊右衛門屋敷などの地名が載り、城郭内であったことが分かる。伊右衛門屋敷は、第三代城主となった山内伊右衛門一豊が秀吉の家臣時代に屋敷を構えていたとの伝承地である。
三の丸の外側に二重の外堀が掘られており、現在は外側の堀が巾は狭まっているが残っている。
建物では、市内の大通寺に追手門、知善院に裏門が移築されており、また、彦根城の天秤櫓も長浜城からの移築とされ、屋根瓦には井伊家の井桁紋に混じって内藤家の上がり藤紋の瓦が見られる。
なお、天守台と復興天守の間の石垣は、大正4年の公園化において散乱していた石を積み直したもので、残念ながら当時のものではない。
豊公園は、桜の名所百選に選ばれており、市民の憩い場であるとともに、観光の拠点施設でもあり、市民はもちろん多くの観光客が訪れ賑やかな城跡である。

道 案 内
移築追手門
県道37号線の長浜IC交差点から西に3.2km程行った祇園町交差点で左折し、県道44号線に入る。南に1.1km程進んだ公園町交差点で左折し、県道2号線に入り道なりに650m程行った港町交差点で右折する。道なりに360m程行った右手側の駐車場に駐車する。目の前に復興天守が見える。
                          

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