No25201−05 瀬田城 (せたじょう)       

城址碑 北より

城郭の概要                  
別  名 : 勢多城、山岡城、
所在地 : 大津市瀬田二丁目
築城年 : 永享年間(1429〜41)
形  式 : 平城
遺  構 :
訪城日 : 平成22年8月8日

歴   史
瀬田城は、山岡資広(景広)によって築かれた山岡氏代々の居城である。
山岡氏は、もと甲賀郡毛枚(もびら)村の土豪であったが、景通の代に栗太郡大鳥居に移り、その三代のちの資広(景広)が室町時代の永享年中(1429〜41)に「勢多村」を平定し、はじめて瀬田の山田岡に城を築いて移ったとされる。なお、それまで瀬田の地を支配していたのは勢多判官の一族とされている。また、築城の異説として、建武年間(1334〜38)景房の築城と伝える。
瀬田城は、山岡資広から嫡子景長に譲られ、景長は六角氏に属し江南の旗頭として活躍し、その後も景秀−景昌−景綱−景就−景之−景隆と代々瀬田城主が受け継がれた。
ところで最後の瀬田城主となる景隆は、足利将軍家に仕えると共に六角氏の有力家臣であった。永禄11年(1568)六角氏の居城観音寺城の落城を前に織田信長の軍門に降り、その後は信長に仕え、足利義昭の籠る宇治槇島城へ出陣、越前朝倉義景攻め、紀州根来攻めなどに従軍し、天正3年(1575)には信長の命により瀬田橋架橋の任についている。
そして天正10年(1582)6月信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って瀬田橋を焼き落として甲賀山中へ逃れた。その後、7月中には帰城し、天正11年織田信雄に属して北伊勢攻めに参陣したが、同年4月の賎ヶ岳合戦に際し、柴田勝家への内通が発覚して瀬田城を追われてしまった。
その後の瀬田城に関する記録は元和元年(1615)4月が最後で、この時期に廃城になったものと思われる。
なお、江戸期には、禅僧天寧が庵を建て「臨江庵」と名付け、また、膳所藩の別亭も置かれている。

構造と感想
瀬田城は、瀬田唐橋の東畔を南へ150m下ったところに位置し、窪江城と共に瀬田橋と東海・東山道を監視する軍事的要衝の地を占めていた。
瀬田丘陵から北西方向に延びた低丘陵地が瀬田川に張り出した先端部に築かれた平城であった。戦時中には北、東、南の三方に深い堀が残っていたようで、その広さは南北140m×東西150mであったと推定されている。また、瀬田橋の東西の道路(東海道)と直角に交差する南北の道路が城の東側を通り南へ下っていた。
しかし、現在では近年まであった立葵紋のついた西門も滅失し、マンションが建設され、昔日の風情はほとんど損なわれてしまっている。

道 案 内
名神瀬田西ICで高速道路を下り県道57号線を北に400m程進みT字交差点で左折する。県道16号線に入り西に230m程いった唐橋東詰交差点で左折する。県道29号線に入り南に240m程走った左手が城跡である。(道路沿いに城址碑が建っている)
なお、京滋バイパス瀬田東ICで下り瀬田南交差点で右折し県道16号線に入り道なりに1.8km程ほど走ると唐橋東詰交差点に至る。後は上記と同じである。

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