No25363-01 水口岡山城 (みなくちおかやまじょう)       

本丸北面下の石垣 南西よりの遠景

城郭の概要                   本丸東側の二段掘りの大堀切
別  名 : 水口城、水口古城
所在地 : 水口町水口字古城山
築城年 : 天正13年(1585)
形  式 : 平山城(標高282.9m)
遺  構 : 石垣、土塁、竪堀、堀切、虎口
訪城日 : 平成23年3月19日 →

歴   史

中世から戦国期にかけて、甲賀郡を支配したのは、「甲賀衆」、「甲賀武士」と呼ばれる在地領主たちで、村々に城を築き自らの力で領地を守り、「同名中」や「甲賀郡中惣」と呼ばれる甲賀独特の自治連合組織を作り、地域のことは地域で守って来た。
織田信長が近江に侵攻してきた永禄11年(1568)頃、甲賀衆は和田氏を中心に信長方に付いていたが、元亀年間(1570〜73)に入ると近江では延暦寺や六角氏を中心に反織田勢力が巻き返しを図り、甲賀衆のおおくも六角氏の被官として、信長包囲網の戦いに参加したとされる。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が斃れると羽柴秀吉が政権を引き継ぎ、天正13年(1585)7月11日、羽柴秀吉は関白の宣下を請け、9月9日に豊臣姓の下賜を奏請して勅許を得て、中央での地位を安定させたが、未だ東には北条氏直、上杉景勝、徳川家康、伊達政宗といった大大名、四国には長宗我部元親、九州には島津義久といった力のある大名がおり、特に前年の小牧長久手で戦った徳川家康には気を遣っており、天正14年(1586)10月に権中納言を襲名させて一応の講和を図ったが、その後も妹の旭を家康に嫁がせ、母親の大政所を人質に出すなど懐柔に努めている。
ところで、この天正13年(1585)に秀吉は近江の国の城郭配置を大きく替えている。安土城を廃城にし八幡山城を築き、安土より城下町も移転させ、甥の羽柴秀次を城主とした。自身の居城である長浜城と美濃の境を監視する佐和山城はそのまま残し、長浜城には山内一豊を佐和山城には堀尾吉晴を配置している。西の大溝城坂本城は廃城とし、天正14年(1586)に新たに大津城を築き、浅野長政を入れた。そして、天正13年(1585)に東海道と東への押さえとして、甲賀衆を改易(甲賀破儀と呼ばれる。)させ、腹心の中村一氏に甲賀郡に領地を与え古城山(大岡山)に本格的な拠点城郭を築かせた。これが水口岡山城であり、当時は単に水口城と呼ばれていた。築城にあたり、三雲城、大溝城等から資材が運ばれたと伝承されており、城跡からは大溝城と同紋の瓦が出土し、伝承を裏付けている。
これらの城郭は、それぞれ京の入り口の守護、伊勢・伊賀・美濃・北陸に通じる街道の要衝に位置し、東への備えであることが一目瞭然である。
その後、水口岡山城は、天正18年(1590)に中村一氏が駿府城に転封され、代わって増田長盛が入城、さらに文禄4年(1595)に長束正家が入城した。長盛も正家も豊臣家五奉行を務めた重臣であり、水口岡山城が豊臣政権にとって枢要の地であったかが窺える。
しかし、慶長5年(1600)長束正家は五奉行として徳川家康を弾劾し、関ヶ原の戦いでは西軍方として毛利秀元、吉川広家とともに南宮山に布陣したが、毛利が動かず本戦に参戦出来ないまま敗走し、水口岡山城に戻ったが東軍に包囲されたあと、日野佐久良谷で自刃したと伝えられる。
水口岡山城は、池田長吉の預かりとなったが、戦後処理で廃城になった。その後の寛永11年(1634)水口岡山城の西方1kmに徳川氏によって水口城(御茶屋御殿)が築かれ、古城山からも石垣が運び出されたと云われるが詳細は不明である。
なお、築城前の古城山には大岡寺(だいこうじ)があったが、移動させられ江戸期になってから南山麓に復帰している。
また、中村一氏は初め瀧孫平次と称し、元は甲賀五十三家の一つ瀧(多喜)氏の一族と云われており、秀吉の尾張中村の弥平次一政の家を継承させようとして中村氏を名乗らせたとされている。


構造と感想

水口市街地の北側にお椀を伏せたような標高282.9mの独立丘陵の「古城山」があり、地元では「城山」と呼び親しまれている。その古城山一帯と山麓部に築かれたのが水口岡山城で、水口古城とも呼ばれる。山頂からは、鈴鹿峠から蒲生一帯と山下を通る東海道を一望のもとに眺望でき、また、山頂部は公園として整備されており、郭や堀切、堅堀、虎口、石垣などの明瞭な遺構を楽しむことが出来る。
東西に長い山頂部には、五つの大規模な郭を連郭式に並べ、各郭間を堀切と高低差で区画し、帯郭で連絡させており、中世城郭の縄張りの名残が色濃く残るが、四囲を石垣で固め、天守を設け、桝形虎口を採用するなど、織豊系城郭ではあるが近世城郭への過渡期の様相も強い城郭である。
山頂部の西から二番目の郭が主郭で東西の端部に土壇が残り、現在ではどちらに天守が建てられていたのかはっきりしない。虎口は西寄りの南北にあり、南側が表口で東斜めに帯郭へ下り、帯郭下の桝形虎口を通り、麓の大手口(桝形虎口)へと登城路が繋がっていた。主郭の北側斜面には石垣が断片的に残り、主郭の斜面全体には礫が散らばっており、総石垣であったと考えられている。
主郭の北西側に20m程下がって郭が一つ、東側に10m程低い二つの郭が連なり、その東に20m程の落差のある郭が築かれている。北西側の郭を除き、主郭以下の郭は裾部にある帯郭により連絡し、主郭の北側と南側の帯郭の東端には、石塁を用いた喰い違い虎口が残存している。
また、山上東端にある郭の裾からは、二本の巨大な竪堀が伸び、南の一本はかつて山麓部に存在した堀につながっていたと考えられている。
山腹の南麓から西麓、さらに北側へと堀を廻らせ城内外を区画し、家臣団屋敷としていた。その堀跡が馬渡川と比定され、南側の城下との出入りに3箇所の枡形虎口が配されていた。中央が大手口である。
水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配および東への拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡である。

 
主郭西端の土壇            帯郭下の桝形虎口

道 案 内
国道1号で西から来ると、名阪交差点で右折し旧国道(県道549号線)に入る。県道549号線を2.2km程東進し、市街地を抜けて山川橋交差点に至る。そこで左折し国道307号に入り500m程北上し、郷土の森東口で城山中学校方面に左折する。300m程西進した城山中学校バス停付近で鋭角に左折し急坂で城山に登って行く。後は道なりに760m程山道を登って行くと行き止まりで、そこに駐車場がある。なお、この途中の水道タンク横に車止めがしてあるが、その先に入って進むと駐車場に行き着く。

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