水口市街地の北側にお椀を伏せたような標高282.9mの独立丘陵の「古城山」があり、地元では「城山」と呼び親しまれている。その古城山一帯と山麓部に築かれたのが水口岡山城で、水口古城とも呼ばれる。山頂からは、鈴鹿峠から蒲生一帯と山下を通る東海道を一望のもとに眺望でき、また、山頂部は公園として整備されており、郭や堀切、堅堀、虎口、石垣などの明瞭な遺構を楽しむことが出来る。
東西に長い山頂部には、五つの大規模な郭を連郭式に並べ、各郭間を堀切と高低差で区画し、帯郭で連絡させており、中世城郭の縄張りの名残が色濃く残るが、四囲を石垣で固め、天守を設け、桝形虎口を採用するなど、織豊系城郭ではあるが近世城郭への過渡期の様相も強い城郭である。
山頂部の西から二番目の郭が主郭で東西の端部に土壇が残り、現在ではどちらに天守が建てられていたのかはっきりしない。虎口は西寄りの南北にあり、南側が表口で東斜めに帯郭へ下り、帯郭下の桝形虎口を通り、麓の大手口(桝形虎口)へと登城路が繋がっていた。主郭の北側斜面には石垣が断片的に残り、主郭の斜面全体には礫が散らばっており、総石垣であったと考えられている。
主郭の北西側に20m程下がって郭が一つ、東側に10m程低い二つの郭が連なり、その東に20m程の落差のある郭が築かれている。北西側の郭を除き、主郭以下の郭は裾部にある帯郭により連絡し、主郭の北側と南側の帯郭の東端には、石塁を用いた喰い違い虎口が残存している。
また、山上東端にある郭の裾からは、二本の巨大な竪堀が伸び、南の一本はかつて山麓部に存在した堀につながっていたと考えられている。
山腹の南麓から西麓、さらに北側へと堀を廻らせ城内外を区画し、家臣団屋敷としていた。その堀跡が馬渡川と比定され、南側の城下との出入りに3箇所の枡形虎口が配されていた。中央が大手口である。
水口岡山城跡は、豊臣政権による近江南部支配および東への拠点であるとともに、規模が大きく遺構もよく遺っていることから今後の調査が期待される遺跡である。
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