No25525−02 大溝城 (おおみぞじょう)       

天守の北面 天守の南面

城郭の概要                   城址碑
別  名 : 高島城
所在地 : 高島町勝野
築城年 : 天正6年(1578)
形  式 : 平城
遺  構 : 天守台、堀、総門、武家屋敷(郭内)、町人街
訪城日 : 平成22年3月8日

歴   史
織田信長が天下統一を目指す中で安土に居城を構えたとき、その対岸にあたる高島支配の拠点として天正6年(1578)甥の織田信澄に築かせたのが大溝城である。
織田信澄は、織田信長の弟である信行の嫡男で父が領地横領の罪で信長に謀殺されたため、信長の重臣である柴田勝家の元で育てられ、天正2年(1574)に高島一円を支配していた磯野員昌の養子となったが、天正6年(1578)員昌が出奔したため、代って高島支配を任され、大溝城を築き新庄城から大溝城に本拠を移した。
大溝の地は、西近江路が通るだけでなく、古代より勝野津として知られる港が在り、水陸交通の要衝地であった。織田信長は、琵琶湖の水運を重要視し、琵琶湖の周辺の水辺に織田信長の安土城、明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、織田信澄の大溝城などの水城ネットワークを形成し、琵琶湖の湖上交通を支配下に置いた。
大溝城は、その一端を担う重要な城であり、城主に織田一族の信澄を起用したのも、安土城が京と東国を結ぶ拠点であるのに対し、大溝城が京と北陸諸国を結ぶ拠点的な城郭として非常に重要視されていたからと考えられている。また、昭和58年の発掘調査で大溝城本丸跡から安土城と同型の軒丸瓦が出土し、大溝城が織田一族の城として重要視されていたことが窺える。
天正10年(1582)織田信長が本能寺に斃れた際、信澄は四国征伐軍の副将として織田信孝(信長の三男)に従って大坂にいたが、信澄の正妻が明智光秀の娘であったことから内通が疑われ、織田信孝・丹羽長秀の軍勢に大坂城二ノ丸千貫櫓に急襲され自害して果てた。
その後、大溝城は天正13年(1585)に甲賀の水口岡山城が築かれるにあたり、その資材調達のために解体し、移築された。
江戸時代に入り元和5年(1619)伊勢国上野より分部光信が二万石で入封し大溝藩ができると、廃城となっていた大溝城の三の丸付近に大溝陣屋を構え、以後代々続いて明治を迎えている。

構造と感想
「織田城郭絵図面」によると、城郭は乙女ヶ池に築かれた水城で、本丸の周りを内堀が囲み、南に二ノ丸、西に三の丸を配し、内湖と琵琶湖が外堀の役割を果たしている。内堀の北・西側は侍地で、三の丸の西に門・桝形・門を設けて城下につながっていた。本丸の南東隅に天守を残りの三隅に櫓が建てられ、さらに内堀の外側にも琵琶湖に接して四つの隅櫓が建てられていた。
しかし、現在に残る城郭遺構は、本丸天守台のみであるが、分部氏時代に三の丸に建てられた陣屋の総門(長屋門)が、民家として残っている。また、城下町の各町名に清水山城や新庄城の町場から住民を移住させて城下を形成した名残が窺える。

道 案 内
郭内の総門
国道161号を北進し白髭神社を過ぎ1.4km程走ると国道161号と高島町市街地に入る道(旧国道)に分岐する。分岐を左斜めの市街地方面に入り、道なりに1.4km程走行すると近江高島駅口交差点に出る。交差点を左折してJR湖西線ガードを通り抜け、180m程先の十字路で左折する。道なりに390m程行くとJR湖西線ガードをくぐり直ぐ右折する。その先右手に病院駐車場が広がっている。そこから北方向に天守台跡が見える。
                    

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平成27年12月23日発掘調査現地説明会時の写真
 今回の調査で本丸西面の石垣が右下写真のように出土し、昭和58年出土の本丸東面の石垣とにより、本丸の東西間が約58mと判明した。
 発掘された北面の石垣がクランク状に曲っており、そこに石段石が二段見つかり、船着き場でないかと考えられている。
 本丸西面の石垣         本丸北面の石垣

 天守台北西より        天守台東より