No25526−05 新庄城 (しんじょうじょう)       

大善寺北側の土塁 左手が大善寺、東側の田を囲む土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 新旭町新庄
築城年 : 戦国期
形  式 : 平城
遺  構 : 土塁
訪城日 : 平成22年3月6日

歴   史

創建期などについては定かでないようであるが、当城の北西にある饗庭野丘陵の東南端に建つ清水山城の出城として築城されたと伝承され、初期には清水山城主佐々木越中氏の一族である新庄伊賀守実秀が城主であったと考えられている。
永正年間(1504〜20)には京極氏の臣浅見対馬守俊孝が、永禄年間(1558〜69)には佐々木越中守の臣多胡上野久秀や多胡但馬定信が城主として当地域を支配していたようである。
その後、元亀元年(1570)4月の織田信長による朝倉攻めに際し、江北の浅井長政が信長に反旗を翻して、背後から挟撃したことをきっかけに信長と反信長勢力との激しい抗争が各地に展開され、同年6月姉川合戦、9月坂本合戦に始まる志賀の陣、元亀2年(1572)9月比叡山延暦寺焼き討ち、元亀3、4年の二度に亘る高島侵攻で信長は湖西地方を手中にし、多胡宗右衛門に本知を安堵している。
天正元年(1573)小谷城に浅井氏を滅ぼした信長は、新知を浅井氏の降将である磯野員昌に与え、当城に入れ郡内を支配させた。しかし、天正6年(1578)員昌は信長の上意に違背して逐電すると、養子の織田信澄が当城の城主となり、大溝城を築城し城下を移したため、新庄城は廃城になったと推測されている。


構造と感想
新庄城跡の推定地は、新旭町新庄城ノ内の周辺とされ、現在の新旭南小学校の南側で県道舟木北畠線を北限に安曇川堤防を南限とする範囲と推測されている。
明治6年『新旭村地引取調総絵図』には、「城ノ内」「二ノ丸」「三の丸」の地名が記され、また、地元には「多胡」「八田」「大藤」「平殿」などの地名が伝えられ、屋敷地の存在も推測されている。
しかし、城跡は度重なる安曇川の氾濫や明治以来の耕地整理によって改変を受け、城ノ内と二の丸の一部は綾羽工業の工場や国道161号線となっている。
昭和57、8年に国道161号線敷設に伴う発掘調査が行われ、二の丸、三の丸に関連する土塁・石列・井戸などが見つかり、また、15世紀末から16世紀後半の土器や甲冑小札なども出土している。
なお、大善寺と隣の水田を囲むように東西30m×南北38mの範囲で東・北・西の三方にコの字状の土塁が残り、新庄城の家臣屋敷地でないかと推測されている。

道 案 内
国道161号高島バイパスの新旭南小学校前交差点に下り、西方向に曲り県道303号線(舟木北畠線)に入る。300m程先の右手が大善寺である。
なお、新旭南小学校は県道舟木北畠線に入った直ぐの右手側で、その南側一帯が城跡推定地である。

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