No25363−02 水口城 (みなくちじょう)       

乾矢倉の石垣と背後の水口岡山城 城址碑と東桝形

城郭の概要                  
 復興模擬櫓資料館
別  名 : 碧水城
所在地 : 水口町水口
築城年 : 寛永9年(1632)
形  式 : 平城
遺  構 : 本丸、出丸、濠、土塁、移築門、
訪城日 : 平成23年3月19日    

歴   史
水口は、甲賀郡のほぼ中央に位置し、室町期には古城山(大岡山)の南麓に一町程の家並みが続く伊勢参宮路上の宿村で、将軍の宿泊も見られたが一郡の中心になったのは、天正13年1585)に古城山(大岡山)に水口岡山城(当時の呼称は水口城)が築かれ、城下町が整備され、豊臣政権における近江東南部における軍事的・政治的要地の地位を占めてからである。
しかし、関ヶ原合戦の戦後処理で同城は廃城となり、城下町は窮地に陥ったが、翌慶長6年(1601)東海道の宿駅に指定され江戸時代は宿場町として歩むことになる。
家康は、江戸と上方の往復でしばしば水口に休泊し、また、元和6年(1620)には二代将軍秀忠の娘和子の入内の際に、宿の南側に御茶屋が置かれた。その後、寛永11年(1634)の三代将軍家光上洛にあたり、宿の南西部に宿館として水口城(水口御茶屋)が築かれた。作事奉行は小堀政一(遠州)が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。しかし、この御殿が将軍の宿舎として使われたのは、この1回限りで、その後、同城は幕府の任命した番衆が管理する「番城」となった。
天和2年(1682)に加藤明友が石見国吉永より2万石で入封、水口藩を立藩し、水口城を居城とした。元禄8年(1695)鳥居忠英が一時藩主となったが、正徳2年(1712)再び加藤(嘉矩)氏が2万5千石で入封し、明治維新まで続き、明治4年(1841)に廃城となった。
なお、近江には同じ目的で建てられた、柏原御殿伊庭御殿、および永原御殿がある。

構造と感想
水口城は、約120m四方の方形区画に東側に張出し部(桝形)を持つ本丸と、その北側に広がる二之丸の二郭で構成される小規模な平城である。
本丸は水堀と石垣で四囲を囲繞し、土居・土塀・多聞櫓・隅矢倉などが配されていた。この城に天守は設けられず、これに代わる乾矢倉が単層ながら6間×7間の規模を有し、現在も落とし積みの石垣がほぼ完存している。
また、本丸部が建物や石垣の大半が撤去されながらも保存され、水口高校のグランドとして使用されている。グランドの周囲には高さ約3m、巾約8mの土塁が残り、その外周に水堀が巡っている。
堀は河川と接続しておらず、野洲川の伏流水が流入していると考えられており、水堀の美しさを讃え「碧水城」と呼ばれてきた。
東桝形部分は、石垣がほぼ残り、昭和63年から平成3年にかけて修景整備され南東隅に模擬櫓が建設され「水口城資料館」とされ、残る石垣上には土塀と北側対岸に連絡する高麗門と木橋が復興されている。
なお、城下の蓮華寺本堂に水口城の客殿玄関が移築されている。

道 案 内
国道1号で西から来ると、名阪交差点で右折し旧国道(県道549号線)に入る。県道549号線を200m程東進した東綾野交差点で右折する。南に730m程行った右手が城跡である。

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