No25204−08 八幡山城 (はちまんやまじょう)       

本丸虎口 本丸北角の石垣

城郭の概要                  
 秀次館の虎口
別  名 :
所在地 : 近江八幡市宮内町、舟木町、多賀町、南津田町
築城年 : 天正13年(1585)
形  式 : 山城(標高283m)
遺  構 : 石垣、虎口、郭、土塁、堀切、水堀、
訪城日 : 平成25年1月20日     

歴   史
豊臣政権下の天正13年(1585)、羽柴秀次は紀州根来攻めおよび四国討伐で副将を務め、その戦功により近江湖東地域に43万石(その時、秀次は18歳と若く、宿老として水口城城主・中村一氏、佐和山城城主・堀尾吉晴、長浜城城主・山内一豊がつけられ、43万石にはその宿老達の23万石を含んでいた。)を与えられ、八幡山(鶴翼山)に八幡山城を築いた。
築城に際しては、山麓の願成就寺を八幡山南の日杉山へ移し、東尾根に鎮座していた日牟礼八幡宮上社を麓の下社に合祀したと伝わっている。また、秀次は八幡堀の外に碁盤目状に区割りされた城下町を造り、安土に残る住民を移住させ、織田信長にならい楽市楽座の掟書を出して城下町の振興を図った。
天正18年(1590)、秀次は小田原征伐の戦功により尾張一国と北伊勢5郡の100万石を賜り、尾張清州に移り、八幡山城には代わって京極高次が大溝1万石から2万8千石の領主として入城した。
天正19年(1591)、秀次は秀吉より関白職を譲られるが、文禄2年(1593)秀吉に実子秀頼が誕生すると次第に両者の関係は悪化し、同4年(1595)謀反を理由に27歳の若さで自刃に追いやられ、さらに妻子30余人も京都三条河原で処刑される悲劇的な最期を遂げた。これに伴い京極高次は大津城に移封となり、八幡山城は聚楽第とともに破却され廃城となった。
現在は昭和38年に門跡寺院の瑞龍寺が本丸跡に移築されている。この寺は、文禄5年(1596)に秀次の母・とも(日秀尼)が、我が子の菩提を弔うため京都・嵯峨野村雲に創建したもので、江戸期に火災にあい西堀川に移されていたものをが、道路事業により移転を余儀なくされたため、この八幡山城跡に移されたものである。

構造と感想
八幡山城は、城郭が山頂で、居館が山麓に分離した構造で、戦国期の城郭に見られる形態であり、時代を逆行した構造形態となっている。
山頂の城郭部は、本丸を中心に二ノ丸、北ノ丸、西ノ丸、出丸が放射状に配置され、それぞれが高石垣で築かれている。本丸へは、二ノ丸の平虎口を入り、左手櫓台の裾を回る様に左に折れ、さらに左に折れ直進すると本丸虎口前に至る。本丸虎口前で右に折れて山門を通り内枡形に入り、枡形内で左に折れて石段を登るとそこが本丸である。迷路のように幾度も折れ、その都度門や横矢で進路を阻まれ、城内への侵入は到底不可能のように思える。
本城は、織豊期城郭で山城でありながら壮大な高石垣を楽しむことが出来る城跡である。また、城跡から眼下に広がる市街地や平野、琵琶湖が望めその眺望は絶品である。
山頂へは図書館裏の八幡公園の秀次銅像の裏手または日牟禮八幡宮横の山道で約45分程で登ることができるが、ロープウェーを利用するのが楽であり、車中より景色も楽しめる。
居館部は、山頂から八幡堀に伸びる二方の尾根に挟まれた南側山麓の谷部に設けられ、南側を八幡堀が取り囲んでいる。谷の中央に真直ぐ伸びる大手道があり、その両側にひな壇状に長方形の区画を設け、その最奥部に高石垣を積み上げ約6千uもの平坦地を作り出して、秀次の居館が構えられた。この秀次館跡は、粘土で覆い叩き締められ、その下から礎石列、溝、金箔瓦、釘などが出土し、中でも秀次の馬印である沢瀉(おもだか)紋の金箔瓦が出土して秀次館跡であることが証明された。

道 案 内
二の丸の石垣
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折して国道8号線に入る。国道8号を1.3km程北東に行った東川交差点で左折する。県道326号線に入り、北西に道なりに3.9km程行くと小舟木交差点に至る。そこで右折し県道2号線に入り、北に1.6km程進んだ中村町交差点で左折する。北北西に1.2km直進すると八幡堀に突き当たる。そのT字路で左折し90m程南南西に行って右折し橋を渡る。その先70m程の図書館前を右折して、25m先で左折、50m先で右折、後は道なりに330m程でロープウエ-乗り場に至る。ロープウエーに乗り5分程で山上の城跡である。

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