No25421-07 小倉城 (おぐらじょう)       

崖下の城址碑 主郭の北側堀と土塁

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 愛東町小倉
築城年 : 承暦年間(1077~1080)
形  式 : 平城(河岸段丘上)
遺  構 : 切岸(断崖)、土塁、空堀、虎口
訪城日 : 平成22年7月10日 

歴   史
小倉城は承暦年間(1077~1080)に清和源氏満季流の小倉景実が愛知郡小椋庄の愛知川を望む天然の要害に築いた城塞とされる。
小倉氏は以後、愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を伸長し、隣強の佐々木六角、蒲生の両氏と雄を競った一族である。
しかし、室町中期には三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良庄の西北の丘陵上に佐久良城を築き本城とし、長寸城(ながすじょう)、鳥居平城(とりいひらじょう)、四ツ谷城等を築き家臣に守らせた。分家の小倉東家は愛知郡小椋庄を支配し、高野城、小倉城を本拠とした。小倉西家は神埼郡御園庄を支配し、山上城を本拠に和南城山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等の支城を設け一族を配した。
永禄年間(1558~69)に至ると小倉氏一族の間に内訌が起こり、山上の小倉西家は独立志向が強く、用水の権利などをめぐって小倉宗家と対立、時折小規模な武力衝突を繰り返し、永禄6年永源寺が蒲生の軍勢に力を貸したとして、小倉右京太夫の攻撃を受け、永禄7年3月23日には永源寺が悉く焼かれるなど緊張状態が続いた。
永禄7年(1564)に小倉西家の山上城主・小倉右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、これに怒った六角義治は佐久良城主である小倉宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じた。実隆は、直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて右京大夫の討伐に出るが、これに対し右京大夫は山田城・和南城・八尾城・相谷城ら支城の小倉西家一門に応援を要請し、戦闘域は山上だけに留まらず小倉宗家と小倉西家全体の戦に発展した。
小倉宗家の実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、小倉宗家方が敗北してしまった。勢いづいた右京大夫は、奥津保(愛知郡、蒲生郡)の辺りを制圧し勢力を拡大するが、この事態に実隆の実家である蒲生定秀が介入し、兵を率いて小倉西家の所領へ攻め入り、右京大夫ら小倉西家を討伐した。
これにより内訌の沈静化には成功したものの小倉氏の力は大幅に衰退し、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていった。

構造と感想 中央部郭群の南側虎口と土塁
愛知川の河岸段丘上に築かれ、東は千手川より西へ2kmの間、断崖に望んで本丸・武家屋敷・土塁・遠見櫓・外堀等があり、断崖の下には田畑に囲まれた小倉の城下町が開けていたとされる。
現在、西端に単郭方形の土塁と空堀を廻らした本丸が残存し、本丸東側100m間は破壊され遺構は残っていない。その東側の小さな谷筋(堀切か)を隔てた東側約180m×65mに方形区画の郭群が残っている。
しかし、土塁は低く、取り囲む空堀も溝のように小規模なものであるが、平面的には随所で土塁が屈曲し、断崖に面しては枡形状の虎口も認められ、軍事的形式は意識された造りとなっている。
この遺構について、小倉氏一族の屋敷が群として構成されたとの見方と織田信長の鯰江城攻めの付城との見方の主張がある。

道 案 内            
名神八日市ICを出た国道421号の八日市IC交差点を東に2.4km程行った御園交差点を左折する。国道307号に入り北に道なりに1.7km程行った妹南交差点を右折する。県道217号線に入り東に3km程行った小倉バス停・小倉野菜出荷場前で左折する。北に向け集落内を200m程進むと崖下の城址碑前に至る。背後の坂道を左に上り切った左手が本丸で、右に上がり切れば両側に屋敷群跡の遺構である。

TOPへ 戻る