No25383−07 佐久良城 (さくらじょう)       

大手の土橋 主郭の土塁

城郭の概要                  
別  名 : 下の城山
所在地 : 蒲生郡日野町佐久良
築城年 : 室町期
形  式 : 平山城(標高210.4m)
遺  構 : 土塁、空堀、土橋、竪堀、堀切、石積み、池
訪城日 : 平成22年11月27日

歴   史
奥津保(奥野保)と呼ばれた日野町北東部は、南北朝時代(1336〜92)までは、儀俄(蒲生)氏支流の佐久良氏が支配していたと考えられているが、南北朝時代の終わり頃に清和源氏満季流とされる愛知郡小椋庄を本拠とする小倉氏が、儀俄氏に代わってこの地を支配したとされ、隣強の佐々木六角氏や蒲生氏と雄を競うようになったようである。
室町中期になると小倉氏は三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良庄の西北の丘陵上に「下の城山」と呼ばれる佐久良城を築き本城とし、その東約1kmに「上の城山」と呼ばれる長寸城(ながすじょう)、さらに鳥居平城(とりいひらじょう)、四ツ谷城園城(おんじょう)等を築き家臣に守らせたとされる。
しかし、小倉氏に関する史料は少なく、応仁文明の乱(1467〜1477)頃に文武兼備の良将であった小倉左近将監実澄が佐久良城を本拠に活躍した事績やその二代後の蒲生氏から養子に入った実隆に関するものが僅かに残るのみで、その実隆が永禄7年(1564)3月16日に山上城を本拠とする西家の小倉右京大夫との和南山合戦で討死し、5月1日の佐久良を戦場とする合戦を最後に小倉氏の動向は不明となり、蒲生氏の麾下のような存在になっていったと考えられている。

構造と感想
佐久良城の城域は、比高約50mの丘陵上に東西約250m、南北160mの範囲に広がり、主郭と馬出し状の小郭を中心に構成されている。
主郭は丘陵の西端部に東西約54m、南北約45mの方形を呈し、四囲を高さ4m程の分厚い土塁が囲繞し、北東隅には櫓台が設けられている。虎口は東西側中央に開口しており、東側の大手を入った右側には庭園遺構と伝わる窪地と石組が見られる。
大手を出ると巾約10m、深さ約3mの大空堀で空堀に架かる土橋を渡り馬出し状の小郭に接続している。小郭では通路をクランクさせて内枡形状にしている。この虎口から土橋の近辺には石積みが残存し、大手の南土塁の内壁や堀切東面に数段の石積みを見ることが出来る。
小郭の東側は、二本の堀切を入れ尾根を遮断しようとしているが、不明瞭で貧弱である。なお、その南北斜面に数条の竪堀が掘られ、その竪堀から南に主郭を取り巻く帯郭や折れを伴った横堀が設けてあり、防御ラインとしている。北の下方には御馬冷ましと云われ一部に石積みされた明瞭な池跡が残っている。
しかし、全体的に雑木や下草に覆われており、本格的な中世館城とされる遺構を十分確認できないのが惜しまれる。
なお、南東400m程の所にある曹洞宗の神護山仲明寺は、小倉氏中興の英傑だった小倉実澄の菩提寺とのことである。

道 案 内
 お馬冷ましの池
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を右折し、国道307号に入る。南に4.9km程行った中在寺交差点を左折し、県道525号線に入る。東に1.8km程行くと県道が左に大きくカーブし、左手の山裾に八幡神社がある。その背後の山上が城跡である。
なお、神社前のY字路を左手に入ると説明板がある。
              

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