No25401-01 山上城 (やまがみじょう)       

主郭の跡 主郭の東側堀跡

城郭の概要                  
別  名 : 山上陣屋
所在地 : 神崎郡永源寺町山上
築城年 : 室町期
形  式 : 平城(館城)
遺  構 : 堀
訪城日 : 平成22年10月23日

歴   史
小倉氏が伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に、応仁の乱の頃より山上城を主力に出城として山田城、八尾城等を構えていた。
小倉氏は、承暦年間(1077〜80)に清和源氏満季流の小倉景実が小椋庄の愛知川を望む天然の要害に築いた小倉城を本拠として、以後、愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を伸長し、隣強の佐々木六角、蒲生の両氏と雄を競った一族である。
しかし、室町中期には三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良庄の西北の丘陵上に佐久良城を築き本城とし、長寸城(ながすじょう)、鳥居平城(とりいひらじょう)、四ツ谷城等を築き家臣に守らせた。分家の小倉東家は愛知郡小椋庄を支配し、高野城小倉城を本拠とした。小倉西家が神埼郡御園庄を支配し、山上城を本拠に和南城山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等の支城を設け一族を配した。
永禄年間(1558〜69)に至ると小倉氏一族の間に内訌が起こり、山上の小倉西家は独立志向が強く、用水の権利などをめぐって小倉宗家と対立、時折小規模な武力衝突を繰り返していたが、永禄6年(1563)には永源寺が蒲生の軍勢に力を貸したとして、西家の小倉右京太夫が同寺を攻撃し、翌7年3月23日堂塔が悉く焼き払われるなど緊張状態が続いた。
また、同年 右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、これに怒った六角義治は佐久良城主である宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じた。実隆は、直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて討伐に出るが、これに対し右京大夫は山田城和南城・八尾城・相谷城ら支城の西家一門に応援を要請し、戦闘域は山上だけに留まらず宗家と西家全体の戦に発展した。
宗家の実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、宗家方が敗北してしまった。勢いづいた右京大夫は、奥津保(愛知郡、蒲生郡)の辺りを制圧し勢力を拡大するが、この事態に実隆の実家である蒲生(定秀)氏が介入し、兵を率いて西家の所領へ攻め入り、右京大夫らの西家を討伐した。
これにより内訌の沈静化には成功したものの小倉氏の力は大幅に衰退し、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていった。
元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名・稲垣安芸守重定が13,000石の諸侯に列せられて常陸の国より近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜って、神崎郡山上郷に山上陣屋を設けたのが山上城の跡地である。

構造と感想
 旧役場の東側堀跡
山上城は愛知川の左岸、鈴鹿を越えて伊勢に通じる八風街道を見下ろす高台に築かれており、交通の要衝を抑える役割を担った城郭である。
現在の浄土宗向上山安養寺および旧永源寺役場一帯が城址で、安養寺境内には城址碑が建てられており、この付近が主郭跡とされている。その規模は、東西60m、南北100mで、三方に堀を巡らしており、近年まで安養寺の東西に堀跡が残っていたが、現在は東側しか残っていない。
             

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を東進すると4.8km程先の左手にある安養寺が城跡である。安養寺手前のT字路を左折し坂を少し下った所の山門前に城址碑がある。

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