No25401−09 高野城 (たかのじょう)       

段丘斜面と石垣 段丘中段上の平坦地

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 神崎郡永源寺町高野
築城年 : 南北朝期
形  式 : 丘城
遺  構 :
訪城日 : 平成25年6月9日

歴   史
高野城の築城年代は定かでないが、小倉氏によって築かれたとされる。小倉氏は、小倉城を本拠に蒲生、神崎、愛智郡の東部に勢力を張った一族で、室町中期になると三、四家に分流し、愛知郡小椋庄を領地とする小倉東家が高野城、小倉城を本拠にするようになった。
織田信長の側室の一人として有名な「お鍋」が嫁いだ先は、この小倉東家で小倉右京亮実房である。夫との間に二子をもうけ、夫が討死した後は、子を連れ信長の側室になった。そして、信長との間に二男(信高と信吉)一女をもうけ、信長亡き後は信長の菩提を弔うことに尽力し、秀吉より愛智郡内で供養料に182石を与えられ、天正11年(1583)にさらに400石の加増を受けた。また、信高は愛智郡菩提寺村、神崎郡山上村などに2000余石、信吉は近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに2000余石を与えられ、信吉は高野に城を築き居住したとされる。関ヶ原の戦いで信高、信吉は西軍に加わったため改易、お鍋の領地も召し上げられた。しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け、お鍋も京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。

構造と感想
高野集落北側背後の段丘最上段に神社と寺院が建てられおり、その一段下(最上段と集落の間の中段)に高野城があったとされる。城跡推定地は耕地整理され畑地であったようだが、現在は耕作放棄され笹の繁茂や植林で無残な状態になっいる。遺構の確認は到底無理な状態である。

道 案 内 この永安寺の斜め右下が城跡
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点を左折し、300m先の紅葉橋を渡り、直ぐの左手に高野神社の鳥居があり、左折して鳥居をくぐる。坂道を登り440m程真直ぐに進み神社の石段下に突き当たる。斜め右の坂道を100m程登り、鋭角に左手に折れ、道なりに250m程行くと獣除けフェンスの門扉に行き着く。門扉の中に入り90m程行った先に永安寺がある。永安寺の南西一段下が城跡である。

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