No25401−02 和南城 (わなみじょう)       

東郭の東側堀切の土橋 主郭土塁内側の石積み

城郭の概要                  
東郭の東側堀切
別  名 :
所在地 : 神崎郡永源寺町和南字山脇
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城(標高234m)
遺  構 : 土塁、石積み、堀切、土橋、竪堀、
訪城日 : 平成22年10月23日     

歴   史
和南城は、南北朝争乱の頃より小倉氏の一族である和南大炊助実経、同弥三郎等が在城したようであるが、その後の城主は不詳である。
永禄年間(1558〜69)に至ると小倉氏一族の間に内訌が起こり、山上の小倉西家は独立志向が強く、用水の権利などをめぐって小倉宗家と対立、時折小規模な武力衝突を繰り返していたが、永禄6年(1563)には永源寺が蒲生の軍勢に力を貸したとして、西家の小倉右京太夫が同寺を攻撃し、翌7年3月23日堂塔が悉く焼き払われるなど緊張状態が続いた。
また、同年 右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、これに怒った六角義治は佐久良城主である宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じた。実隆は、直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて討伐に出るが、これに対し右京大夫は山田城和南城・八尾城・相谷城ら支城の西家一門に応援を要請し、戦闘域は山上だけに留まらず宗家と西家全体の戦に発展した。
宗家の実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、宗家方が敗北してしまった。勢いづいた右京大夫は、奥津保(愛知郡、蒲生郡)の辺りを制圧し勢力を拡大するが、この事態に実隆の実家である蒲生(定秀)氏が介入し、兵を率いて西家の所領へ攻め入り、右京大夫らの西家を討伐した。

構造と感想
多度神社の東背後の脇山から西に伸びる尾根先端部に約350mにわたり遺構が残っている。
獣除けフェンスから山道に入り左手に館跡とされる屋敷地の広い段郭を見ながら尾根近くまで登ると右に折れるうっすらとした道がある。その道で尾根上に出て右(西)に向かうと城跡である。
尾根に出て直ぐに東端に設けられた土橋の架かる小規模な堀切様横堀がある。その内側は50mに亘り降りの自然地形緩斜面が続き、次の堀切様横堀に至る。この横堀には南端に土橋が架かり、また、内側には並行して土塁があり、南端に虎口が設けられている。大規模で横矢を掛けるなど見事な防御施設が構えられているが、郭内は30m程降りの緩斜面が続いた後、部分的に掘削された不整形の地形となる。削り残しの土塁状の高まりを越えて北側の坂土塁を下りると主郭である。東西30m、南北20m程で四周には土塁が巡り、東・南・西側の土塁内法は石積みで固められている。虎口は北西隅に開き、土塁を巻くように石積みが築かれている。虎口を西に出て土橋を渡ると細長い削平地が80m程続き、その先は急斜面となる。
この城の特異性は、横堀と土塁で前後を区画する連郭式の山城を目指したが、二郭目の途中で構築が中断したと推測されていること、また、それぞれの横堀に並行する土塁および虎口を石積みで築こうとしたことが挙げられる。

道 案 内
 主郭の東側土塁
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との御園交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点を右折し、県道188号線に入り、南に2.2km程行って県道が右カーブする手前のY字路を左手に進み集落内に入る。130m程先の十字路で左折し東に170m程行って左折する。その先150m程行くと光明寺で付近の道路脇に駐車する。170m程戻りT字路を左折し20m先を右折した突き当たりが登り口である。
     

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