No25401−05 九居瀬城 (くいでじょう)       

南城北西部の石垣 南城西の腰郭

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 神崎郡永源寺町九居瀬字布袋谷
築城年 : 室町期
形  式 : 山城(標高486.2m)
遺  構 : 石垣、竪堀、堀切、土橋、土塁、竪土塁、
訪城日 : 平成22年12月11日

歴   史 南城西郭の西端の巨石列と下段郭
九居瀬城は、小倉城を本拠に愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を張った小倉氏が、応仁の乱(1467〜77)に関連して築いた城郭と推測されている。
しかし、累代の城主を確認できる文書は存在せず、わずかに永源寺文書(永正6年(1509)3月26日)に小倉兵庫助殿、右京允殿、左近允殿とあり、その中の兵庫助を九居瀬城主に充てているが確認はされていない。また、「蒲生郡志」の小倉氏系図には九居瀬城主を小倉左京亮行国と記しており、「淡海温故録」には一族の内部抗争において、小倉左京亮行国が九居瀬城に立て籠もったが、このときの館跡が当時も残存していたと記されている。また、「近江愛智郡小倉系図」には小倉三河守良秀が九居瀬鋒山(トガリヤマ)に立て籠もったと記している。

構造と感想
久居瀬城は、愛知川上流の永源寺ダム北に位置する標高486.2mの笠松山(この山は、元「卒塔波山」と呼ばれたが、その名は悪いとして「突山(トガリ山)」と呼び改められたと「小辰家文書」が伝えている山である。)山頂に築かれた山城で、八風街道を眼下に見下ろすことができ、街道交通を押さえる城であったと考えられる。
城跡は、鞍部を隔てた北と南のピークに築かれており、南のピークに残る遺構が比較的明瞭で、東西に細長い頂上部を小規模な堀切で二分し、二つの郭を配している。その東側下方には堀切を穿ち、西側は巨石を用いた石垣で区画し、北西部の切岸は石垣と三本の竪堀で防備している。さらに南西側に三段の腰郭を築いている。なお、東方の堀切外は40m程緩斜面が続き、その先は巨石が散在する平坦な尾根、急斜面となっている。
この南のピークから250m程隔てた北のピークと南、北および東に伸びる尾根上にも遺構が残るが風化しているように思える。この中で比較的明瞭な遺構としては、ピーク北斜面の竪堀と竪土塁が残る。しかし、南に伸びる尾根は低木に覆われ、北に伸びる尾根上は鉄塔の設置で、遺構の確認は難しい。

道 案 内
名神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を直進、更に国道421号を5.3km程東進すると山上小学校前交差点に至る。その交差点も直進し紅葉の名所・永源寺も越え1.7km程走ると相谷集落入口のY字路に至る。そのY字路を左手に入り300m程先のY字路も左手に進み、坂を下って橋を渡り右にカーブし後は道なりに2.2km程進むと永源寺ダムに到達する。大きな白い観音像が建っている辺りに駐車する。
ここから山手側の階段を上がりその奥の山道に入る。九十九折れの山道を登り尾根筋に出たら右手方向に登って行くとピークに至り視界が開ける。右手側の鞍部を隔て主郭部の南城、左手側が出郭部の北城である。
なお、国道から永源寺ダムを車では抜けられないが、歩いてだったら渡れるので、国道421号で永源寺ダムまで行く方法もある。こちらの方が道の整備はよい。

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