No25383−09 | 鳥居平城 | (とりいひらじょう) |
西から二番目の郭の東側土塁 | 西から三番目の郭の東側堀切 |
◆ 城郭の概要 |
別 名 : |
所在地 : 蒲生郡日野町鳥居平 |
築城年 : 室町期 |
形 式 : 平山城(標高223.8m) |
遺 構 : 土塁、空堀、竪堀、堀切、池 |
訪城日 : 平成22年12月26日 |
「西」「東」 現地の縄張図 |
◆ 歴 史 |
奥津保(奥野保)と呼ばれた日野町北東部は、南北朝時代(1336〜92)までは、儀俄(蒲生)氏支流の佐久良氏が支配していたと考えられているが、南北朝時代の終わり頃に清和源氏満季流とされる愛知郡小椋庄を本拠とする小倉氏が、儀俄氏に代わってこの地を支配するようになった。 室町中期になると小倉氏は三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良庄の西北の丘陵上に「下の城山」と呼ばれる佐久良城を築き本城とし、その東約1kmに「上の城山」と呼ばれる長寸城、さらに鳥居平城(とりいひらじょう)、四ツ谷城、園城(おんじょう)等を築き家臣に守らせたとされる。 鳥居平城に関しての文献史料は少なく、わずかに「淡海温故録」に「鳥比良(鳥居平)が昔屋形左近将監満高 城を築て、是に在城と云う」と記され、また「近江蒲生郡志」には「城山」の名を伝え、蒲生氏家臣吉倉氏の城といい、「蒲生旧趾考」では蒲生氏家臣寺倉氏の城としているが、詳細は不明である。 しかし、城の規模は約600m×約130mにおよび一家臣の居城とは考え難く、蒲生氏や小倉氏が拠点城郭として使用したと考えるべきとされる。 |
◆ 構造と感想 |
鳥居平城は、集落北側の東から西に伸びる標高220m〜230m程の丘陵上に築かれている。北側は直下を前川が流れ谷が形成され、比高差40m程の急崖となっている。南側は鳥居平の集落との比高は20m程で若干緩やかな斜面となっている。 この東西に細長い尾根上に約40〜80mの旧地形に制約を受けた不整形な十数個の郭が一列に連旦する縄張りで、殆どの郭が土塁で囲繞され、郭間は比高差5〜10m前後の堀切または堀切状地形で明確に区画され独立性の高い構造を呈している。 主郭は、中央で東西尾根から南に分岐し張り出た標高223.8mの小尾根に設けられ、東西尾根上の郭を見下ろす位置にある。東西約30mの方形を指向する砲弾状を呈し、四囲に明瞭な土塁を巡らせている。北東隅には櫓台、西側に虎口が開き、城道は折れを伴って集落に下っている。東背後は堀切を入れ、その南北に曲尺状の土塁を築き、周囲との区画が強く意識されている。 主郭の東約100m辺りからは広大な郭が続くが、尾根巾が広がったためで、地形に規定された結果である。 それにしても、説明板に「滋賀県内でも屈指の山城」とあるが、十分納得できる大規模な城跡である。遺構は完存状態と云ってよく、土塁囲いの郭、その間の堀切、そして濠を兼ねた池など見ごたえ十分な城跡であり、訪城されればきっと満足されるものと思う。 |
◆ 道 案 内 | 主郭の土塁 |
神高速道八日市インターを下りて国道421号を東の永源寺方面に進み、2.4km程行った国道307号との(御園)交差点を右折し、国道307号に入る。南に4.9km程行った中在寺交差点を左折し、県道525号線に入る。東に道なりに2.8km程走ると中之郷交差点に至り、右折して県道508号線に入る。県道508号線を南西に930m程行くと鳥居平バス停があり、バス停を越えた直ぐのT字路を左折し、鳥居平集落に向かう。230m程行って斜め右手方向に進み100m程で左手に鳥居平会議所がある。会議所に城跡への案内が出ており、車は付近の余白に駐車する。 |
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