国吉城  No18442−02 (くによしじょう)       

主郭北西側虎口 主郭の北西方向

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 三方郡美浜町佐柿
築城年 : 天文年間(1532〜1555)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、土塁、堀切、竪堀、虎口、
訪城日 : 平成27年4月11日

歴   史
『若狭国誌』」に「佐柿村山上ニ在リ。粟屋勝久 之ニ拠リ、国吉城ト称ス。往昔、某姓国吉ナル者ノ築ク所、勝久再興 故ニ旧名ヲ称ス 云々」とあり、某姓国吉が創築した城の旧基を弘治2年(1556)若狭守護武田義統の重臣であった栗屋越中守勝久が国境警備の城として再築したと伝わる。
永禄6年(1563)8月下旬、越前守護朝倉義景の命を受けた敦賀手筒山城主朝倉景恍・半田又八ら約1千の兵が、国吉城を攻めるため若狭へ出陣した。勝久はすかさず三方郡一円に陣触れをし、地侍・百姓ら約800を国吉城に集め、関峠に200の兵を配し防戦を命じ、この間に城では籠城の備えに努めた。同年9月関峠に侵入した朝倉勢を撃退、そして国吉城に来襲した朝倉勢も押し返した。この後、永禄7年(1564)、永禄8年(1565)、永禄10年(1567)と朝倉勢は侵入を繰り返し刈田などを行ったが、国吉城は落とせなかった。永禄11年(1568)には国吉城を避け三方町へ抜け大倉見城を攻めたが落とせず、小浜の守護館を襲い、若狭守護武田元明を拉致して越前へと引き上げていった。
元亀元年(1570)織田信長が越前朝倉攻めの軍を起こし若狭に入ると、勝久は熊川城に信長を出迎え、国吉城に入った信長は越前攻めの本陣とし、4月25日に疋壇城、手筒山城を落とし、26日には金ヶ崎城を開城させた。
この時、信長の妹婿である北近江小谷城主浅井長政が反旗を翻し、信長を背後から挟撃したため信長は一旦撤退を余儀なくされたが、天正元年(1573)浅井氏、朝倉氏を続けて滅ぼした。その際の先手を勝久ら若狭衆が努め、一乗谷に一番乗りして元明を救出している。
本能寺の変後、勝久は豊臣秀吉によって他国へ所替えとなったが、その転封先は不明である。勝久転封後の国吉城主には木村常陸介定光がなり、佐柿を城下町として整備している。
しかし、定光は文禄4年(1595)秀次事件に連座して自害し、その後、堀尾・浅野・木下・京極氏と替わり、元和元年(1615)頃に国吉城は廃城となったと考えられている。
寛永11年(1634)酒井忠勝が12万3500石をもって若狭国主となった後、国吉城麓の粟屋勝久館跡に佐柿町奉行所(陣屋)を置いた。また、佐柿は城下町から丹後街道の宿場町へと変貌を遂げ、江戸時代を通じ繁栄を続けた。

構造と感想
国吉城は、御岳(標高549m)から北西に延びる山系のやや起伏した頂部で標高197mの城山に主郭を置き、北西に下降する尾根筋に階段状に郭を連ねた連郭式山城である。
南西側の山麓には居館(栗屋勝久館)が構えられており、館跡から谷筋の登城路を20分程登ると中腹に「二ノ丸」と伝承される出丸がある。出丸は南面に規模の大きい土塁が付帯し、その中央付近から北へ土塁が延び食い違い虎口が設けられ、削平地を二分している。
出丸から更に15分程登ると主郭下の堀切に到達する。この堀切は通路の役割を果たしたのか両側面が石垣で固められている。この堀切の右手頂部が本丸で、形状は三角形で、周囲に野面積みの石垣が廻らされていたが、現状は崩壊が著しく痕跡を留める程度である。南隅には「L」字形の高さ1m程の土塁、北西側と東隅に石垣や石段を伴った平虎口が開き、北東側虎口の前面には枡形に見立てた虎口郭と二段の帯郭があり、堀切となる。主郭背後の東側は大堀切に加え、小さな堀切を二本入れ遮断している。
主郭北西下の堀切を隔てては、よく削平された段差の大きい五段の段郭が連なり、坂土塁や虎口のスロープで連絡している。
城跡は良く手入れされ、眺望もすばらしく、戦国時代の山城の姿を体感できるお勧めの城跡である。

道 案 内
若狭舞鶴自動車道の若狭美浜インターを降りて、最初の若狭美浜IC口交差点で左折して国道27号に入る。国道27号を1.3km程西進すると国吉城トンネルがあり、トンネルを出て670m程進んだ信号交差点(左手に小さな道路案内板がある。)で左折する。曲って直ぐの突き当たりで再び左折し、東に550m程道なりに進むと左手に徳賞寺がある。お寺の手前左手に若狭国吉城資料館の駐車場がある。城跡へは、資料館の左奥から城跡に通じる山道がある。 

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側面石垣の堀切            主郭周囲の石垣

  虎口郭への石段          主郭背後の堀切


 
U郭から主郭を望む               V郭   

 
W郭虎口                   出丸