金ケ崎城  No18202−04 (かながさきじょう)       

二の城戸 月見御殿(本丸)

城郭の概要                  
別  名 : 敦賀城
所在地 : 敦賀市金ヶ崎町
築城年 : 延元元年(1336、建武3年)
形  式 : 山城
遺  構 : 竪堀、堀切、
訪城日 : 平成27年4月11日

歴   史
足利尊氏に背かれ吉野へ逃れ南朝を樹立した後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が延元元年(1336、建武3年)10月尊良親王と恒良親王を奉じて気比氏治の居城であった金ケ崎城に入城した。
しかし、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され、翌延元2年3月足利方の猛攻を受け金ヶ崎城は落城。尊良親王と義貞の嫡男義顕ら城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛された。
義貞は落城前に金ヶ崎城を脱出、杣山城に拠って高経らに対抗し勢いを盛り返したが、延元3年(1338、暦応元年)7月藤島の戦いにおいて討死してしまった。これにより足利方が越前を平定し、金ヶ崎城には越前守護代甲斐氏の一族が入り、敦賀城と称した。
長禄3年(1459)守護斯波義敏と守護代甲斐常治が対立し、長禄合戦が起こり、義敏が金ヶ崎城を攻めたが大敗した。応仁の乱(1467〜77)以降は、朝倉氏が越前の主権を握り、金ケ崎城は支城として機能した。
元亀元年(1570)4月、織田信長が越前に侵攻、国境の疋壇城手筒山城、金ヶ崎城を落とし、まさに越前に攻め込まんとした時、信長の妹婿である北近江の小谷城主浅井長政が離反、背後から挟撃されることとなり、信長は木下藤吉郎らに殿を任せ、近江朽木谷を通りかろうじて京へ逃げ帰った。
天正元年(1573)信長により朝倉氏が滅ぼされると敦賀郡は若狭の在地勢力武藤舜秀(しゅんしゅう)に与えられた。その後、天正10年(1580)には羽柴秀吉に与した蜂谷頼隆が敦賀に入封し、敦賀城を築いたため金ケ崎城は廃城となった。

構造と感想
近江から越前へは敦賀から木ノ芽峠を越え今庄へ出るのがルートで、金ヶ崎城は敦賀湾に面した岬の先端に位置し、陸路と海路を押さえる要衝の地に位置している。また、3方を海に囲まれ守り易く攻め難い要害地形であった。
構造は、岬の先端の断崖上に尾根筋を細長く削平した本丸にあたる月見御殿があり、南東に続く尾根筋に三から一までの城戸に三本の堀切を入れている。三の城戸と二の城戸の間にも細長い郭があり兵糧庫があったとされ、焼け米が出土している。南斜面中腹の金前寺敷地は居館跡のようである。
残存遺構の中では、特に二の城戸の堀切が明瞭である。

道 案 内
北陸自動車道の敦賀インターを下りて国道8号バイパスの北方向に入る。国道8号バイパスを520m程北進した分岐で左手に下り、真直ぐ300m程行き余座交差点で左折する。国道476号に入り道なりに970m程進むと国道8号との交差点に至る。その交差点を直進し190m程行った信号交差点で右折し、340m程走ると敦賀港線の踏切を渡る。その左手に金前寺の駐車場がある。金前寺の左手上に金が崎宮があり、そこから案内板に従い城跡へと進む。

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尊良親王の陵墓           先端部の断崖