敦賀城  No18202−02 (つるがじょう)       

城跡に建つ真願寺の山門 城の礎石

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 敦賀市結城町
築城年 : 天正11年(1583)
形  式 : 平城
遺  構 : 移築門
訪城日 : 平成27年11月7日

歴   史
天正3年(1575)織田信長の越前平定により敦賀郡代に武藤宗右衛門が任じられ、宗右衛門は花城山城に入った。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が斃れると、天正11年(1583)信長の跡目争いで羽柴秀吉に与した蜂屋出羽守頼隆が敦賀5万石を与えられ領主となった。頼隆は、武藤氏の花城山城を廃し、笙川西岸に敦賀城を築城した。
しかし、天正17年(1589)頼隆は九州遠征中に病没し、替わって大谷吉継が5万7千石で敦賀城主となり、三重の天守を持つ城に整備拡充したが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで吉継は石田三成の西軍に属し敗れ、自刃した。これにより大谷氏は改易され、敦賀は福井城主結城(松平)秀康の所領となり、元和元年(1615)の一国一城令で敦賀城は廃城にされた。

構造と感想
大谷吉継の居城として知られている敦賀城は、結城町の真願寺一帯から八幡神社のある三島一丁目辺りまでが城域であったとされる。小学校南東角と真願寺山門横に敦賀城趾の石碑がある。(訪城した時は、真願寺が改築工事中で城址碑は移動されなかった。)
遺構としては、真願寺境内の乾門の礎石と敦賀城中門が来迎寺表門として移築されている。また、八幡神社の境内に表門の礎石が展示されている程度で、市街化で縄張り遺構は完全に消失している。

道 案 内
北陸自動車道の敦賀インターを下りて国道8号バイパスの北方向に入る。国道8号バイパスを520m程北進した分岐で左手に下り、蒲鉾工場の周りをU字にカーブし、次に大きく左カーブをして信号交差点に出る。その交差点を直進し西に840m程行くと気比神宮の南東角に至り、気比神宮の南側を西進、旧国道8号との気比神宮交差点を直進して県道33号線に入る。570m程西進し信号交差点で右折し60mで敦賀西小学校で石碑の説明板がある。さらに240m程北進して左折、210m程西に行った左手が真願寺で城址碑が建てられている。

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敦賀西小学校で石碑