福井城  No18201-01 (ふくいじょう)       

天守台跡 内堀と天守台

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 福井市大手3丁
築城年 : 慶長6年(1601)
形  式 : 平城
遺  構 : 天守台、石垣、水堀、土塁、井戸、
訪城日 : 平成22年6月22日

歴   史
福井城の前身は、天正3年(1575)に柴田勝家が築城した北ノ庄城である。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は二男結城秀康(同9年に松平姓に復姓)を下総結城から越前13郡68万石の領主に封じ、秀康は翌慶長6年(1601)から北ノ庄城跡に天下普請により築城を開始、約6年の歳月をかけて城郭部分を完成させた。引き続き城下町を囲む総構えの構築を進めたが、慶長12年(1607)秀康が逝去し、総構えは東方の加賀口付近が完成したのみで中断された。
秀康の後継となった忠直は寛永元年(1624)乱行のため改易となり豊後に配流され、その弟忠昌が越後高田より55万石で入部し北ノ庄を福井と改称した。以後、越前松平氏が在城し、五代目昌親の時に禄高は半知となったが、徳川御家門筆頭として明治を迎えている。
なお、城の建物は寛文9年(1669)の大火でほとんどが焼失し、その後は天守の再建は行われず巽櫓と坤櫓を三重櫓に再建し天守の代用とした。

構造と感想
福井城は、足羽川北岸、荒川との合流点付近に築城され、荒川の河道を変え、新川を東外堀、旧河道を百阮xに利用している。方形の本丸を二の丸、三の丸が囲む輪郭式の縄張りで、その間に水堀が4重5重に巡らされた平城である。
かつての本丸は、西北隅に四重五階の天守が建ち、他の三隅には二重の隅櫓が構えられ、南側に内桝形の大手門と本城橋、北側の東寄りに内桝形の北不明門、西側に山里口門と廊下橋が設けられていた。
現在、本丸外周部と天守台の石垣、内堀、そして天守台の井戸が残るのみで、本丸内部の殆んどは県庁敷地に使用され、桝形石垣も撤去されている。また、天守台の石垣には、昭和23年の福井地震による崩れがそのまま残っている。
しかし、切り込みハギで精緻に積まれた天守台や本丸外周主要部の石垣は見事で、内堀越しに眺める姿は、近世城郭の雰囲気たっぷりである。

道 案 内
北陸自動車道の福井インターを降りて国道158号の北北西方向に入る。福井市中心部に向って2.3km行くと高架の国道8号を潜り、そのまま直進して県道5号線に入り2.5km程行くと幸橋北詰交差点に至る。そこで右折し県道28号線に入り北に150m程行った大名町交差点で右折する。県道11号線に入り東に340m程行った県庁入口交差点で左折すると正面が県庁である。周辺の有料駐車場を利用。

TOPへ 戻る

南                  

                     本丸の右下に天守台

 
本丸への廊下橋        天守台の虎口    

   西側の内堀          福井地震で破損した石垣

 
 大手の結城秀康公像     福の井(地名の由来になった井戸)