疋壇城  No18202−01 (ひきたじょう)       

本丸南西隅の櫓台 北より本丸櫓台と石塁を見る

城郭の概要                  
別  名 : 疋田城
所在地 : 敦賀市疋田
築城年 : 文明年間(1469〜87)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、石垣、石塁、
訪城日 : 平成27年4月11日

歴   史
疋壇城は、文明年間(1469〜87)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保によって築かれ、以後、七代に亘り疋田氏が居城した。
この地は、越前と京をつなぐ西近江路と、越前と江戸をつなぐ塩津街道が合流する交通・軍事上の要衝で、奈良時代から平安時代に掛けては日本三関(鈴鹿関、不破関、愛発関)の一つである越前愛発関が置かれ、戦国期には越前朝倉氏の最南端の防衛拠点としての役割を担った。
元亀元年(1570)織田信長による越前侵攻の際には、手筒山城金ヶ崎城と共に疋壇城も落城したが、信長の妹婿である北近江の小谷城主浅井長政が信長に離反し背後より挟撃したため、信長はすぐさま撤退しかろうじて京へ逃げ帰った。信長撤退後、疋壇城には再び朝倉勢が入り城の修復を行ったが、天正元年(1573)8月態勢を立て直した信長は浅井氏を滅ぼし越前に向け進軍すると、朝倉義景は近江柳ヶ瀬まで出陣し信長軍を迎え撃ったが、先陣が敗北を喫し疋壇城へと退却する途中、織田勢の猛追を受け刀根坂で合戦となり大敗、義景は疋壇城に入るも持ち堪えられず落城、城は完全に破却された。

構造と感想
疋壇城は、敦賀市街地から南南東5.4kmに位置する谷間に広がる小さな平坦地である疋田に所在する。東側下方に疋田の集落を見下すなだらかな丘陵上に築かれている。
城跡の南側三分の一は小学校が建設されたことで消失しているが、本丸から北側の遺構が良好な状態で残存している。
本丸は東西45m×南北65mの方形で、消失した南側を除く三方に巾15m、深さ6mの空堀がめぐっている。本丸の南西隅には中央に城址碑が建つ、東西20m×南北15mの櫓台があり、2m下がって本丸の東側を除く三方を巾12mの石塁が囲み、それより1m下がって35m四方の平坦地が広がっている。
本丸北側の郭のような巾広い空掘を隔て40m四方の北郭が続き、その東側下方に二段、本丸の東側下方に一段の腰郭ががあり、落差6mの急斜面となる。
この城は、郭の周囲や堀の土留めに石垣が多用されており、今も良く原形を留めているが、他の朝倉氏の城では見られない築城技術であり、朝倉氏滅亡後に改修の手が入った可能性が高いと思われる。

道 案 内
国道8号を敦賀市街から南下し、国道161号が分岐する疋田交差点で右手の国道161号に入り、直ぐに右折する。右折後50m程先の突き当りを右折、20m弱で直ぐ左折、その先は道なりに230m程進むと右手が城跡である。城跡内のゲートボール場に駐車できる。

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本丸西側の空堀          本丸東側の石垣
         本丸の石塁                   城址碑