手筒山城  No18202−03 (てづつやまじょう)       

主郭 主郭群北端の堀切

城郭の概要                  
別  名 : 天筒城
所在地 : 敦賀市天筒
築城年 :
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、堀切、堅堀、
訪城日 : 平成27年4月11日

歴   史
南北朝期に南朝方の新田義貞が尊良親王と恒良親王を奉じて気比氏治の居城であった金ケ崎城に入城し、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢と合戦に及んでいる。
永禄11年(1569)織田信長の越前侵攻に備え、西の国境に位置する敦賀の郡司を務めていた朝倉中務大輔景恒が金ヶ崎城に立て篭もり、天筒山城には寺田采女丞を守将として入れ、疋田右近・津波甚四郎・九岐佐助を物頭として配した。
元亀元年(1570)4月織田軍は越前に侵攻し疋壇城を落として、手筒山城と金ヶ崎城へと進軍、天筒山城を北側背後から攻撃し落城させた。援軍の到着が遅れ天筒山城が落城したため、金ケ崎城の景恒は形成の不利を悟り開城して城を明け渡し退却した。その時、突如信長の妹婿である北近江の小谷城主浅井長政が離反し、信長は背後から挟撃されることとなり、木下藤吉郎らに殿を任せ、近江朽木谷を通りかろうじて京へ逃げ帰った。
京より岐阜に戻り態勢を立て直した信長は、天正元年(1573)朝倉氏を滅ぼし、天筒山城は廃城となった。

構造と感想
近江から越前へは敦賀から木ノ芽峠を越え今庄へ出るのがルートで、敦賀の北東側に敦賀湾に向け南東から北西へと山稜が延び、陸路と海路を押さえる要衝となっている。この山稜の先端に金ケ崎城、そして南東約800mに手筒山城が築かれていた。この両城は越前の西の国境を護る第一防御線で、その背後に控える木の芽峠城砦群が第二防御線を形成していた。
金ヶ崎城から尾根筋を南東に辿ると標高174.3mの手筒山山頂に至り、その山頂に手筒山城の主郭が置かれ、そこから稜線は山頂を中心に南北に延び、山頂から約200m南で稜線は南東へと向きを変え、更に1km程続いている。
構造は、山頂一帯の主郭群、山頂から金ヶ崎城に向かう尾根筋上に北T群、南西に延びた稜線上に南T群、その南に南U群、南端に南V群の五群からなる大規模な城砦である。
しかし、城域が広いため主郭群と南T群を巡ったのみで、その範囲で残存する遺構はあまり明瞭でなかったが、主郭北側の箱堀や主郭群北端の堀切、北端の郭や付帯する帯郭の土塁が比較的原形を留めている。また、主郭の中央に設置された高さ15m程の観光用展望台からは見晴らしが開けている。

道 案 内
北陸自動車道の敦賀インターを下りて国道8号バイパスの北方向に入る。国道8号バイパスを520m程北進した分岐で左手に下り、真直ぐ300m程行き余座交差点で左折する。国道476号に入り道なりに800m程進むと道路が高架から平地に下り、そこの信号交差点で右折する。直ぐに敦賀港線の踏切を渡り100m程東進した左手に駐車場があり、道路の反対側に案内板が建てられている。案内に従い城跡へと登る。

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北端郭の帯郭と土塁        背後の沼地(中池)