木ノ芽峠城  No18404−01 (きのめとうげじょう)       

東の堀切 西郭

城郭の概要                  
別  名 : 木ノ芽城、三度丸、三度頭丸
所在地 : 南条郡南越前町(今庄町)二ツ屋木ノ芽峠
築城年 : 永禄12年(1569)
形  式 : 山城
遺  構 : 堀切、竪堀、土塁、空堀、井戸 
訪城日 : 平成22年4月18日

歴   史

木ノ芽峠城は、古来より敦賀から越前今庄・府中へ抜ける北陸道の関門である木ノ芽峠を押さえる役割を持って、峠の南東側に築かれており、峠の北西側に築かれていた観音丸城と一体で機能した城砦である。
南北朝時代には築かれていたと推測されているが、その年代は定かではなく、永禄12年(1569)織田信長の進攻に備えて朝倉義景が本格的な城砦に改修し、家臣の堀二郎三郎を置いたとされる。
天正元年(1573)義景は信長が包囲する小谷城の浅井長政を救援すべく近江柳ケ瀬まで出陣したが、先方が敗退し義景は越前へと退却する。
しかし、江越国境の刀根坂で追撃してきた信長軍に追いつかれ、義景は兵力の大部分を失う大敗を喫し、辛うじて敦賀から木ノ芽峠を越え府中、一乗谷へと逃げ帰った。一乗谷に入った義景は、大野郡司朝倉景鏡の勧めにより大野へ退いたが、景鏡の裏切りを知り、大野郡山田荘の六坊賢松寺で自尽して果てた。
朝倉氏を滅ぼした信長は、木ノ芽峠城へ鎌刃城主堀次郎、山本山城主阿閉淡路守貞秀を番将として入れた。
天正2年(1574)一向一揆が蜂起し、信長から越前支配を任された降将の守護代桂田長俊(前波吉継)を一乗谷に攻め滅ぼし、越前の織田勢力を次々と駆逐した。木ノ芽峠城も一向一揆に包囲され番将・堀次郎の陣代樋口三郎兵衛は一揆方と和睦して城を明け渡した。
天正3年(1575)8月信長は再び10万余の軍勢を整えて越前に侵攻、これに対し一揆方は木ノ芽峠城に大将の下間頼照、西光寺丸城に本覚寺・西光寺の門徒衆、鉢伏城に杉浦壱岐・専修寺・真宗寺・阿波賀三郎兄弟が入ったが、一揆勢の結集は少数で、逃亡者も相つぎ、信長軍に瞬時に粉砕された。
一向一揆制圧後、越前8郡49万石は柴田勝家に与えられ、勝家が越前と近江を繋ぐ新たな栃の木峠道を整備したため、木ノ芽峠の重要性は薄れ、木ノ芽峠の城砦群は廃城となった。


構造と感想
越前の南の国境に沿って北西から南東に延びる山稜があり、そのやや南寄りに北国街道が通る木ノ芽峠がある。その峠を挟んで山稜上に北から南へ鉢伏城、観音丸城、木ノ芽峠城、西光寺丸城の4城砦が築かれ、木ノ芽峠城砦群と称されている。これらの4城砦は連携して木ノ芽峠を守備していたとされる。
木ノ芽峠を挟んだ南東側に木ノ芽峠城が、北西側に観音丸城が築かれており、この両城は一つの城として機能していたと考えられている。
木ノ芽峠城の規模は南北約180m、東西約130mで、尾根上の二つの郭を中心に北斜面に段郭を四段、南斜面に帯郭を付帯させ、南東端を大堀切で遮断している。なお、大堀切の外側(南東側)に送電線の鉄塔が建つ南北約40m、東西約20mの削平地があり、西光寺丸城との間を守備する出丸とされる。
城跡は後世の畑地化により著しい改変を受けており、また、ブッシュも繁茂しており、現状からかつての形状を掴むことは困難である。

道 案 内

北陸自動車道の今庄インターを下りて国道365号の南方向(滋賀県方面)へ入る。滋賀県境へ向け道なりに12.5km程走り、今庄365スキー場入口の大きな看板がある所で右折しスキー場まで登る。スキー場の駐車場を過ぎてそのまま道なりに登って行くと分岐点があり、分岐を左手に進み870m程登ると右側に「木ノ芽峠城砦群」の大看板がある。見上げると峠の茶屋が見えるので、峠茶屋へ向け20m程登ると、茶屋の背後上方が木の芽峠城である。


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東西郭間の空堀               南側の帯郭

 
井戸                攻撃用玉石


木ノ芽峠