No25483-7 山本山城 (やまもとやまじょう)       

小谷城を望む 主郭の東虎口

城郭の概要
別  名 : 閉阿山城
所在地 : 東浅井郡湖北町山本
築城年 : 平安時代末期・戦国時代 
形  式 : 山城(標高324.4m)
遺  構 : 土塁、堀切、虎口、土壇、竪堀
訪城日 : 平成22年4月5日 五番馬場の北側堀切・土橋

歴   史

平安時代末期の治承4年(1180)に以仁王の平家追討の令旨に応じた源氏方山下兵衛尉義経が籠もった「近江山下城」がこの山本山城であったとされる。
その後、木曽義仲と行を共にしていた義経は、寿永3年(1184)の粟津ケ浜での合戦以後消息を絶ち、二度とこの城に戻らなかったようである。
戦国時代には、京極氏の支城となり被官の阿閉氏が本拠としていたが、永正年間(1504〜1521)には3km西方の尾上城の浅見氏が詰城として用いていた。浅見氏は一時期浅井亮政と反目していたが、次第に浅井氏の勢力下に組み込まれ、山本山城は小谷城の支城となった。浅井長政は、再び阿閉氏を山本山城に入れた。
浅井氏にとって山本山城は、湖上交通を押さえる上で大切な位置にあり、また、小谷城丁野山城、山本山城を結ぶラインは、浅井氏の領土防衛の最重要ラインであった。
元亀3年(1572)の織田信長による小谷城攻めに際し、同城も攻撃を受け、翌年には、阿閉貞征が織田信長に降り開城した。これで小谷城は孤立し、落城することとなった。
阿閉貞征は、秀吉の与力となり山本山城と伊香郡内の所領を安堵されたが、天正10年(1582)の本能寺の変で明智光秀に付いたため、秀吉に追討され一族全て頸を刎ねられ、山本山城は廃城となった。


構造と感想
山本山の周囲は、西を琵琶湖と野田沼が、東と南は余呉川が囲む要害地形であった。
山頂の主郭は、周囲に高土塁を巡らせ南北に長い方形をしている。南東・北西・東側に平虎口が開く。主郭の南側は、南への緩斜面であるがブルドーザーによる破壊を受け旧状を止めていない。
主郭の西側には縄張図にない竪堀と竪土塁があり、その間に帯郭が設けられいる。東側には南郭から回り込んだ帯郭が、その下方には武者隠し、さらに50m程下方には不整四角形の東郭があり、南西部に南郭と同様の破壊を受けているが、北と東に土塁が残り、北国街道方面を監視する重要な郭と位置付けられていた。
主郭の北方200m間の細尾根には、8カ所の馬場や小郭と6条の堀切が交互に配され、広さや土塁の有無・囲繞範囲は様々である。さらに60m程北に風化した2条の堀切が認められ、尾根の分岐点にあたり番所や城戸が置かれたと思われる。
県内では最古期に属する城跡であるが、今に残る遺構は、土塁や堀切の多用など高度な築城技術が見られ、姉川合戦以降に小谷城攻防に備え改修されと考えられている。
急な山道を60分も登るが、山頂に残る遺構や眺望は素晴らしく、汗を拭き拭き登った甲斐があったと思えること間違いない。特に、主郭の北方は、これでもかと思うほど堀切を入れているのが圧巻である

道 案 内 主郭の北堀切
県道37号線の長浜IC口交差点を西に1km行った川崎町交差点で右折し国道8号に入る。国道8号を道なりに北に9km程行った速水北交差点で左折する。西に県道258号線を2.1km行くと県道252号線との交差点に出る。その交差点を直進して270m先で右手の橋を渡る。集落内の道路を北に350m行くと朝日小学校東側の駐車場に至る。駐車スペースは広い。
駐車場の北に説明板があり、そこの階段を登って常楽寺を通り抜け、山頂を目指し登ること50分程で城跡に至る。

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