No25483-8 丁野山城 (ようのやまじょう)       

主郭 南側の喰違い堀切

城郭の概要
別  名 : 岡山城
所在地 : 東浅井郡湖北町丁野
築城年 : 永正15年(1518) 
形  式 : 山城(標高167.5m)
遺  構 : 土塁、帯郭、堀切、虎口
訪城日 : 平成22年3月27日 小谷城を東に望む

歴   史

永正15年(1518)浅井亮政によって築城され、岡山城とも呼ばれた。
元亀3年(1572)織田信長の小谷城攻めの際に、浅井氏の救援に来た越前の朝倉義景は、7月晦日に小谷城に着陣し、8月2日には大嶽城から南に馬蹄形に伸びる西側の尾根筋(知善院筋)に布陣した。この時、丁野山城も改築し家士の堀江甚助、久保田勘十郎、平泉寺玉泉坊らに守備させた。その後、信長が武田信玄の進軍に備え岐阜に撤退したことから、小谷城が危機を脱したと判断した朝倉義景は、丁野山城と大嶽城に番勢を置き、12月3日越前へと帰陣した。
しかし、武田信玄は、陣中で病状が悪化し、撤退中の天正元年(1573)4月12日に信濃国駒場で亡くなった。これで窮地を脱した信長は、小谷城攻略を本格化させ、同年8月8日山本山城を開城させ、12日に大嶽城を13日に丁野山城を落とし、再び越前より救援にやって来た朝倉義景を小谷城に入れることなく、同日夜に田上山城から越前に向け退却させた。


構造と感想
丁野山は、西に高時川が流れ、南の山脇山との間や東と北側に低湿地が広がる天然の要害地形であった。
城は、その山頂に南北に築かれ、最高所に約20m角の郭を削りだし、主郭としている。主郭の周囲には土塁を廻さず、一段下がった帯郭の外側に土塁を設けている。土塁の南北側は広い土壇状になており、櫓台てあったと考えられる。さらに、土塁の外側に犬走りが走っている。
城の端部には、鋭い堀切を設け、南北の尾根筋道や山腹斜面からの移動を遮断している。南の堀切は、喰違い虎口のような形状をしている。堀切の外側に土壇地形が残り、その外にもう一本堀切が必要と思えるが設けられていない。
この城跡は、平成18年(2006)の大河ドラマ「功名が辻」の放映に際し、観光資源とするため、中島城とともに整備が行われ、大変見やすく遺構の残りも良いので、放映中は大変多くの人が訪れていた。特に、横堀状の帯郭が明瞭に残る。

道 案 内
帯郭の北西虎口
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点を右折し、北に県道510号を道なりに6.5km程行くと国道365号の郡上南交差点に出る。その交差点を左折し国道365号に入り1.5km程北に行った丁野交差点で左折すると県道278号線である。西に900m程行った左手の独立山丘が岡山で、その山裾に広い会社の駐車場がある。そこから南方向の鞍部を目指し7・8分程歩くと峠に至る。峠の道標に従い右手に進路をとり、20分程急な山道を登り詰めると城跡である。

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