京極氏に替わり急速に台頭した浅井亮政が永正13年(1516年)に長浜平野の北東隅に突き出した伊吹山系の一支脈である小谷山の最高峰に砦を構えたとされ、それが大嶽城で、大永5年(1525)の段階では主郭であった。その後、南の尾根上の本丸・大広間跡に主郭が移ったと考えられている。信長の小谷城攻撃時は、朝倉軍が駐留していたが、北の焼尾を守っていた浅見対馬守が寝返ったため、大嶽も落ちてしまった。
大嶽は、小谷山の最高所を占める立地条件と土塁等の風化の程度および郭間の配置や普請の技法に鋭さがかけるなどの条件から、浅井氏初期の構築にかかるものと考えられている。長政の時代になってからは、小谷山の西半部に拡がる各尾根筋からの侵入に備える要的機能を持っていたようで、周囲の郭の配置状況から下山田・丁野・美濃山方面を警戒していることが分かる。特に、西方・下山田、丁野への防御については、二重の大堀切が築かれている。
一重目の堀切は高さ約8m幅5m、二重目は高さ4m幅4mもあり、非常な強固さを誇っている。
しかし、大嶽より六坊に下る尾根筋は、敵の侵入する可能性が低いにもかかわらず小規模な郭が90カ所近く山王方面に対し配置されている。恐らく天正元年(1573)8月12日の織田軍による大嶽占拠より同月27日の小谷城への最後の攻撃を控える2週間ばかりの間に急造された織田方の「向い城」と考えられている。
なお、横堀や枡形状虎口などの進んだ形態が見られることから、元亀3年(1572)に浅井氏を来援しに来た朝倉氏によって改築されたとの見方をする研究者も多いようである。また、朝倉の城に見られない構造があり、賤ヶ岳合戦に備え羽柴秀吉が改修したとの説もある。
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