No25483-2 大嶽城 (おおづくじょう)       

大嶽城より山本山城・竹生島を望む 城址碑と土塁

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡湖北町伊部
築城年 : 永正13年(1516)
形  式 : 山城(標高495.1m)
遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口
訪城日 : 平成22年5月16日 北西の堀切

歴   史

京極氏に替わり急速に台頭した浅井亮政が永正13年(1516年)に長浜平野の北東隅に突き出した伊吹山系の一支脈である小谷山の最高峰に砦を構えたとされ、それが大嶽城で、大永5年(1525)の段階では主郭であった。その後、南の尾根上の本丸・大広間跡に主郭が移ったと考えられている。信長の小谷城攻撃時は、朝倉軍が駐留していたが、北の焼尾を守っていた浅見対馬守が寝返ったため、大嶽も落ちてしまった。
大嶽は、小谷山の最高所を占める立地条件と土塁等の風化の程度および郭間の配置や普請の技法に鋭さがかけるなどの条件から、浅井氏初期の構築にかかるものと考えられている。長政の時代になってからは、小谷山の西半部に拡がる各尾根筋からの侵入に備える要的機能を持っていたようで、周囲の郭の配置状況から下山田・丁野・美濃山方面を警戒していることが分かる。特に、西方・下山田、丁野への防御については、二重の大堀切が築かれている。 一重目の堀切は高さ約8m幅5m、二重目は高さ4m幅4mもあり、非常な強固さを誇っている。
しかし、大嶽より六坊に下る尾根筋は、敵の侵入する可能性が低いにもかかわらず小規模な郭が90カ所近く山王方面に対し配置されている。恐らく天正元年(1573)8月12日の織田軍による大嶽占拠より同月27日の小谷城への最後の攻撃を控える2週間ばかりの間に急造された織田方の「向い城」と考えられている。
なお、横堀や枡形状虎口などの進んだ形態が見られることから、元亀3年(1572)に浅井氏を来援しに来た朝倉氏によって改築されたとの見方をする研究者も多いようである。また、朝倉の城に見られない構造があり、賤ヶ岳合戦に備え羽柴秀吉が改修したとの説もある。


構造と感想
大嶽城は主郭の周囲に帯郭や腰郭を配置した輪郭式の構造をしており、主郭は高さ2〜4mの幅広い土塁を周囲に廻し、東側が一段低くなっている。上段の南と下段の北に外枡形状の虎口を設けている。南西下方には土塁を廻した腰郭が3段、主郭北から西に掛けての帯郭は南西に下降し、腰郭まで達している。腰郭の下方には、2筋の竪堀と多数の段郭を設け、北西尾根は二重堀切で断ち切って、北や北西方向の守りを固めている。
これらの堀切や枡形状虎口などの進んだ築城技術は、小谷城主要部には見られないことから朝倉氏の手が入っているとされる。
しかし、山崎丸や福寿丸と大嶽城の土塁や郭形状には、鋭さに違いが見られ、朝倉氏の改修は部分的なように思える。
大嶽城は小谷山の最高所だけあって、その眺望は江北一帯や琵琶湖、湖西方面まで見渡すことができ絶景が楽しめる。空気の澄んだ好天の日に訪城されると良い。

道 案 内
県道37号線の長浜IC口交差点を西に330m程行った山階町東交差点を右折し、北に県道510号を道なりに6.5km程行くと国道365号の郡上南交差点に出る。そこを右折し東に380m程行き左手にある小谷城の大きな看板の所で左折する。後は山裾まで行き斜め左手方向の林道へ入って、林道の終点まで上っていく。終点の100m程手前に駐車場がある。
林道終点の右手の小谷城跡を1km程縦走すると小谷城の北端の峠に至る。峠で道標に従い右手に行けば月所丸へ、左に行けば清水谷(根小屋)へ下り、斜め左手の登り坂が大嶽城に通じている。峠から急坂を20分程登ると城跡である。

TOPへ 戻る