No25483-1 焼尾砦 (やけおとりで)       

削平地と土壇 北端の切岸

城郭の概要
別  名 :
所在地 : 東浅井郡湖北町上山田
築城年 : 天正元年(1573)
形  式 : 陣城(標高253m)
遺  構 : 削平地、堀切
訪城日 : 平成22年5月16日

歴   史
天正元年(1573)8月の織田信長による小谷城攻めに際し、江北の守りの要である山本山城の守将浅井氏重臣の阿閉貞征が寝返り、信長は8月10日に小谷城北の山田山(陣屋の馬場城)に布陣することができた。
このため、北方防備の必要に迫られた小谷城は焼尾砦を構え、浅見対馬守を入れ置いたと考えられている。
小谷山山頂・大嶽城の北方を守備する浅見対馬守は、信長に内応し8月12日に織田軍を焼尾砦に引き入れ、織田軍はこれを足掛かりに大嶽城を攻め落とした。
江北の守護・京極氏は、戦国時代も中頃になると内訌により衰退し、家臣間の覇権争いが起こり大永3年(1523)には浅井氏・三田村氏・今井氏・堀氏らが浅見氏を盟主として結束、京極高清の家宰上坂信光を上平寺城に攻め、京極高清と上坂信光を尾張へと追放し、高清の嫡男・高広(高延)を擁して京極家当主と仰ぎ、浅見貞則の居城・尾上城に迎えた。
ところが、京極高広を奉じた浅見貞則の専横に対し、翌年、浅井亮政は貞則と争って高広を奪い小谷城に迎えると共に、先きに尾張へと追放した京極高清も小谷城へ迎え入れた。
以後、浅井氏が台頭するが長政の代まで浅見氏は浅井氏に従属することはなかったと云われ、こうした経緯が浅見氏の裏切りに繋がったと考えられている。

構造と感想
神明宮跡背後の緩やかな尾根道を登っていくと急峻な地形へと一気に変わる。その手前で、尾根が約130m×約20mに亘り平坦になる所がある。また、樹木も切り払わ眺望が開けている。ここが焼尾砦跡のようである。
土塁や空堀、明瞭な堀切などの施設は見当たらず、削平もあまくただ陣を張っただけと思われ、城郭遺構は見られない。

道 案 内
国道8号の木之本IC口交差点から東に540m程行った木之本交差点を右折し、南に1km程行った千田北交差点を右折する。ループ状の高架を登り国道303号に入り、東に900m程行った田部東交差点を右折、国道365号へと入る。南に3.4km程行った阿弥陀橋交差点を左折し、更に国道365号を1.4km程行った交差点(右手にコンビニあり)を鋭角に左折する。北西に360m程行って「こもれび苑前」を右折し、北東に1.1km程行ったY字路を右手の川沿いに入り、250m程行くと右手に電柵で閉じられた橋がある。その電柵を外し橋を渡り林道へ入る。坂道を少し上ると左手に神明宮跡があり、その広場に駐車スペースがある。
神明宮跡の背後の尾根を右に登って行くと15分程で砦跡に至る。

TOPへ 戻る