鉢伏城  No18404−02 (はちぶせじょう)       

主郭の南東方向 主郭の大手

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 南条郡南越前町(今庄町)二ツ屋鉢伏山
築城年 : 永禄12年(1569)
形  式 : 山城
遺  構 : 土塁、空堀、竪堀、堀切、虎口、 
訪城日 : 平成

歴   史
鉢伏城は、永禄12年(1569)織田信長の越前侵攻に備え朝倉義景が築き、家臣の印牧弥六左衛門に守備させたとされる。
天正元年(1573)義景は信長が包囲する小谷城の浅井長政を救援すべく近江柳ケ瀬まで出陣したが、先方が敗退し義景は越前へと退却する。
しかし、江越国境の刀根坂で追撃してきた信長軍に追いつかれ、義景は兵力の大部分を失う大敗を喫し、辛うじて敦賀から木ノ芽峠を越え府中、一乗谷へと逃げ帰った。一乗谷に入った義景は、大野郡司朝倉景鏡の勧めにより大野へ退いたが、景鏡の裏切りを知り、大野郡山田荘の六坊賢松寺で自刃して果てた。
天正2年(1574)一向一揆が蜂起し、信長から越前支配を任された降将の守護代桂田長俊(前波吉継)を一乗谷に攻め滅ぼし、越前の織田勢力を次々と駆逐した。木ノ芽峠城も一向一揆に包囲され番将・堀次郎の陣代樋口三郎兵衛は一揆方と和睦して城を明け渡した。
天正3年(1575)8月信長は再び10万余の軍勢を整えて越前に侵攻、これに対し一揆方は木ノ芽峠城に大将の下間頼照、西光寺丸城に本覚寺・西光寺の門徒衆、鉢伏城に杉浦壱岐・専修寺・真宗寺・阿波賀三郎兄弟が入ったが、一揆勢の結集は少数で、逃亡者も相つぎ、信長軍に瞬時に粉砕された。
一向一揆制圧後、越前8郡49万石は柴田勝家に与えられ、勝家が越前と近江を繋ぐ新たな栃の木峠道を整備したため、木ノ芽峠の重要性は薄れ、木ノ芽峠城砦群は廃城となった。

構造と感想
木ノ芽峠城城塞群の中で一番北に位置し、また、木ノ芽峠から北西約700mの最高所でもある鉢伏山(標高762m)に所在し、山頂部から北北西に下降する尾根上に築かれている。城の規模は南北約320m、東西約100mで木ノ芽峠城砦群の中で最大規模である。
構造は、南と北の二つに分かれ、周囲に土塁を巡らした山頂部の郭が主郭で、海側へ延びる尾根筋の郭が海岸部からの敵の侵入に備えたものである。
大手は南東部で二重の空堀を穿ち、土橋で渡って直ぐ右に折れ主郭の南東虎口へと入る。大手のほか東と西側にも虎口が開いている。北西に海側に向け主郭から大きく落ち込む尾根筋が搦め手で、三本の堀切が入れられ、その間の小ピークに二つ三つの郭が設けられている。
この城は木ノ芽峠城塞群の他の三城とやや離れており、木ノ芽峠側である大手の防備が厳しく、木ノ芽峠城の詰の城として機能したと考えられている。
主郭からは足元に敦賀市内や日本海を一望でき、土塁や虎口、空堀が明瞭に残り、かなりの見応えである。

道 案 内
北陸自動車道の今庄インターを下りて国道365号の南方向(滋賀県方面)へ入る。滋賀県境へ向け道なりに12.5km程走り、今庄365スキー場入口の大きな看板がある所で右折しスキー場まで登る。スキー場の駐車場を過ぎてそのまま道なりに登って行くと分岐点があり、分岐を左手に進み870m程登ると右側に「木ノ芽峠城砦群」の大看板がある。見上げると峠の茶屋が見えるので、峠茶屋へ向け20m程登ると、茶屋の背後上方が木の芽峠城である。その反対側が観音丸城でそこから北へと所々に出ている案内板に従って歩いていくと城跡である。

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下方に金ケ崎城を望む         西側の虎口と土塁