No25207−09 守山城 (もりやまじょう)       

大光寺 堀とされる金森川

城郭の概要                  
別  名 : 守山陣所
所在地 : 守山市守山1丁目
築城年 : 応永8年(1401)
形  式 : 平城
遺  構 : 堀跡、
訪城日 : 平成25年9月8日

歴   史
守山城は、応永8年(1401)に宇野一元によって築かれたとされる。その後、近江守護佐々木氏一族の主流で観音寺城主佐々木六角氏の後見職を務めた神崎郡種村城主の種村氏から守山城主が出ていたが、永禄11年(1568)9月種村道成の守る守山城に観音寺城を落城させた織田信長軍の木下藤吉郎、池田惣三郎信輝が攻め寄せこれを落城させた。
信長は京と岐阜との通路を確保するとともに一向一揆に対処するため、守山城を改修したと思われる陣所を築き、美濃国安八郡曽根城主の稲葉一鉄を守将とした。さらに近隣の勝部城にも稲葉貞通を、浮気城には佐久間信盛を置いたとの記録が残る。
なお、宇野氏は、佐々木六角氏の旗頭で青地城主青地氏の家臣であり、承久3年(1221)の承久の乱の際に清和源氏の流れをくむという宇野源太郎守治が戦功をたて、恩賞として鎌倉幕府から関津城を与えられ、子孫が代々関津城城主を務めている。また、草津山寺城の城主としても宇野氏の名が表れている。

構造と感想
守山城は、曹洞宗大光寺と守山市営駐車場から金森川にかけての一帯に築かれていたとされる。城郭遺構は何も残っていないが、東方から流れてきた金森川が南方に大きくU字状に蛇行し三方を囲い込んだ一帯が城域であったと考えられている。この付近に昭和30年代頃まで土塁跡や竹薮、深い堀割が残っていたようである。

道 案 内
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号に入り北東方向に520m程先の宅屋口バス停を越えた交差点(北東側にパチンコ店がある。)を左折する。県道145号線に入り北西方向に道なりに2.5km程行った?魔堂町交差点で右折する。県道2号線を北東方向に820m程行った守山銀座西交差点を右折し、その90m程先で左折する。路地に入り100m程で大光寺前である。

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