No25201−01 関津城 (せきのつじょう)       


発掘後風景 (現地説明会の掲示写真より)

 

上の写真は北裾の郭虎口、門の礎石

西裾の郭、水路奥の穴は排水口

城郭の概要                  
 北裾の郭
別  名 : 宇野城
所在地 : 大津市関津三丁目
築城年 :
形  式 : 山城(標高110m)
遺  構 : 土塁、堀、竪堀、堀切、虎口、
訪城日 : 平成23年1月29日  →

歴   史
西裾郭の土塁
関津城城主とされる宇野氏は、佐々木六角氏の旗頭青地氏の家臣であり、承久3年(1221)の承久の乱の際に清和源氏の流れをくむと云う宇野源太郎守治が戦功をたて、恩賞として鎌倉幕府から関津城を賜り、子孫が代々関津城城主を務めている。しかし、いつ築城され、いつ頃まで存続したのかなど、詳細は不明である。
なお、大石龍門の八幡神社には、天文9年(1540)の棟札に「田上関津宇野美濃入道」の名が伝わっている。また、関津の称名寺には、宇野氏の墓と伝えられる五輪塔が残されている。  

構造と感想
関津城は、穏やかな流れの瀬田川が急流となって山城国に流れ降る境目の丘陵端に位置する山城で、近江の南の玄関口である瀬田川や関津峠を眼下に見下ろしている。
縄張りは、太神(田上)山山系から北に派生する、地元で「源太郎山」と呼ばれる低丘陵の先端頂部に築かれた方形の土塁と堀に囲繞された主郭を中心に、その北裾と西裾に土塁で囲まれた屋敷地が配され、複雑な構造の虎口を伴っている。さらに西側切岸の中段には土蔵建物が建っていた。
しかし、裾部の防備に比べ背後の尾根続きは主郭に土塁と空堀を設けただけで、尾根の断ち切りが行われておらず、領地・領民に領主権力を誇示する性格の強い城郭でないかと推測されている。
なお、関津城は、滋賀県が施工する国道422号大石東バイパス道路改築工事により城域の大半が消失する運命にある。平成21年8月から平成23年3月までの間に消失範囲約4,700 uの発掘調査が行われ、城郭の空間利用として「戦闘の空間(櫓台・切岸・虎口)」、「褻[ケ]=日常の空間(今回見つかった礎石建物群、井戸)」、「晴[ハレ]の空間(威信、饗応財を用いた空間で未調査部分に想定)」の使い分けがなされていたことが明らかになったとしており、また、城郭内の空間利用や建物の用途を遺構(礎石建物や井戸)と出土遺物の両面から復元できる事例はほとんどなく、この点においても貴重な調査であったと解説される。
それにしても発掘後の姿を見ると消失の運命は、いかにも残念でならない。

道 案 内
名神瀬田西ICまたは京滋バイパス瀬田東ICで高速道路を下りて西方向に瀬田川沿いの県道29号線(夕照の道)に出る。瀬田川沿いを南の下流方向に走り、京滋バイパスガード下から道なりに2.1km程行った黒津二丁目交差点を直進、橋を渡り直ぐに右折する。県道29号線をさらに道なりに1.8km程行くと左手に諏訪神社がある交差点に至る。そこを左折し160m程先の右側に平安台団地に入る坂道があり、団地内へ180m程走り三ヶ所目の十字路で左折する。左折して突き当たりまで行き、そこから東北東70m先の山が城跡である。(私は発掘現地説明会で訪れたので、関津自治会館から道路予定地を通り城跡まで行った。)
道路完成後も北裾の郭が1/3、西裾の郭が2/3程は残る。

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