No25381−01 常楽寺城 (じょうらくじじょう)       

南西側の堀 常楽寺港跡

城郭の概要                  
別  名 : 木村城
所在地 : 蒲生郡安土町常楽寺
築城年 : 不詳
形  式 : 水城
遺  構 : 水堀、石垣、
訪城日 : 平成22年9月12日

歴   史
常楽寺城は、築城年代は定かでないが、佐々木六角氏の家臣であった木村氏によって築かれた居館である。木村氏は、古代豪族佐々貴山君の系譜を引く本佐々木氏の出とされており、沙沙貴神社の神官を勤めている。また、普請奉行として安土城築城に係わり、「安土町奉行」として信長に仕えた木村次郎左衛門尉もこの木村氏の一族と考えられている。
中世の常楽寺港は、佐々木六角氏が支配していた近江湖東地区の物資の集積場として、さらに東西および南北の流通の要所として重要な役割を占めており、その港の出入り口に居を構えていたとされる「木村氏」の役目も重要であったと考えられている。
永正4年(1507)管領細川氏の家督争いに端を発した将軍職の争いで、前将軍足利義材によって将軍職を追われた足利義澄を水茎岡山城に保護した伊庭氏の家臣・九里備前守および伊庭貞隆と六角高頼の戦い(第二次伊庭の乱)で、常楽寺城は伊庭方に攻められ落城している。
六角氏と家臣・伊庭氏の戦いは、永正11年(1514)から6年の長きにわたって続き、永正17年(1520)水茎岡山城の落城を契機に六角氏が勝利を得るが、元亀元年(1570)落窪の戦いを最後に六角氏が滅びると常楽寺城も廃城となった。
常楽寺城は廃城となるが、南近江を掌握した織田信長は、天正4年(1576)安土城を築城するまでの間にたびたび常楽寺に宿泊している。
また、元亀2年(1571)には常楽寺港から一向一揆が立て籠もる金ヶ森城を攻め、元亀4年(1573)には常楽寺から高島郡の木戸城(清水山城と想定されている。)と田中城攻めに出陣している。

構造と感想
常楽寺城跡は、常浜水辺公園に隣接する畑地一帯とされ、発掘によって堀を検出したとされるが、地表に遺構らしきものは残されていないが、微高地になっている畑地に面影が偲ばれる程度である。また、住宅地の中に常楽寺港の舟入が残っている。
なお、港や城跡周辺の水路の大部分が埋め立てられ、現在の畑地を取り巻く石垣が組まれてた水路も後世に構築されたものと推定されている。

道 案 内
名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折し、国道8号線に入る。国道8号を北東に1.3km程行くと日野川を渡り東川町交差点に至る。東川町交差点を左折し県道326号線に入る。北西に3.9km程行った小船木町交差点で右折し、県道2号線(朝鮮人街道)に入る。北東に5.1km程行った常楽寺交差点で右折する。260m程先の右手が常浜水辺公園駐車場です。城跡は、駐車場の南西方向100m先です。

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