No25524−05 田中城 (たなかじょう)       

観音堂北西端の堀切 主郭と背後の土塁

城郭の概要                  
屋敷地の土塁と虎口
別  名 : 上寺城、上の城
所在地 : 安曇川町田中字大畑
築城年 : 戦国時代
形  式 : 山城(標高220.75m)
遺  構 : 土塁、堀切、池、井戸、
訪城日 : 平成24年12月8日    

歴   史
『近江與地志略』に「上寺村古城址上寺村上の山に在り。田中播磨守実氏の居城跡也、高島七頭の一員たり。此城上の城と号し、南市村城を下の城と称す。」とあり、また、『高島郡誌』には「田中氏は田中郷に住したるを以て家号とす。上寺城に居り、此を上の城と称し、南市村の城を下の城と称す。或説に高信田中郷に住し子孫代々田中家を相続すと称すれども田中氏は頼綱より分かれて田中郷に出でしものなり。」と記されており、上寺集落背後の山上にある城跡が西佐々木氏一族の田中氏の居城で、「上寺城」あるいは「上の城」と呼ばれていたとされる。
しかし、田中城がいつ築城されたのか、天台寺院の松蓋寺を移転させて築城したのか、あるいは松蓋寺が廃寺となった跡地を利用して築城したのかは不明のようである。
田中城に関しては、『信長公記』 に三度登場し、元亀元年(1570)4月21日、「信長、朝倉攻めのため、高島の内田中が城に泊まる。」、次に元亀3年(1572)3月11日「信長、和邇に出陣し、浅井・朝倉軍を木戸(清水山城)・田中の城へ追い込む。」、最後に天正元年5月22日「信長、大船にて高島郡を攻撃。陸からも木戸・田中両城を攻める。」と記されており、高島を攻略した信長は木戸・田中両城を明智十兵衛に与え、この時点で高島郡の支配権は浅井・朝倉より織田信長へと移った。
なお、この田中氏からは、後に関ヶ原の合戦で石田三成を捕えるなどの軍功によって柳川城主となった田中吉政が出ている。

構造と感想
田中城は、安曇川町の西方に広がる泰山寺野台地の南東方面に分岐する支峰上から山裾にかけて築かれている。ここからは、安曇川や鴨川によって形成された高島平野の南部や琵琶湖と対岸の湖東平野も一望することができる。
遺構は、北西より伸びてきた支尾根を堀切で遮断し、内側の尾根を削り出し長さ約40m強の一騎駆けを設け、続く最高所に空堀と土塁の廻る主郭、その南東下方に向け連郭式に4段の段郭を配する山城遺構と 山城遺構の東側一段下がった台地上に観音堂の建つ西端の平場から東西150m×南北140mの範囲に基本方形の二十近い削平地が並列的に設けられた寺坊跡を改修したと見られる屋敷地遺構から成っている。
しかし、薬師堂の建つ平場は、高く急な切岸や北東端に堀切を備え、他の屋敷地が概ね平坦なのに対し、一段高く遮断された感があり、山城部に含まれるのでないか。

道 案 内 (主郭よりの遠景)
国道161号高島バイパスの青柳交差点で西方向に入る。西に300m程行くとY字路があり左手に進み、50m程で旧国道161号の西万木交差点に出る。直進して県道297号線に入り、道なりに3.6km程走ると上寺地区で、右手道沿いに縄張図つきの大きな説明板が立てられている。そこから北西に集落内に入り、28m先のT字路で左折して、40m程先で右手の道に進む。坂道を55m程登って右に曲がる。7m程行くと小さな案内標識があり、左に曲がり砂利道を25m程入ると城址碑がある。獣除けフェンスを通り抜け、案内標識に従い登城する。

現地の縄張図

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