No25204-04 水茎岡山城 (すいけいおかやまじょう)       

頂部東西郭間の堀切と土橋 竹林に埋もれた鞍部の石垣

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 近江八幡市牧町
築城年 : 南北朝期
形  式 : 山城(標高187.7m)
遺  構 : 土塁、堀切、土橋、石垣、
訪城日 : 平成25年1月20日

歴   史
水茎岡山城は、南北朝時代に佐々木六角氏の湖上警護の支城として築かれたと伝わるが、本格的な築城は、永正5年(1508)に細川澄元に担がれて足利第11代将軍に就いていた義澄が、細川高国と大内義興の担ぐ前将軍・義稙(義材・義尹)の入洛を恐れて近江に逃れた際、六角氏重臣の伊庭氏とその被官九里氏を頼ってこの城に入城した頃に始まったのではないかと考えられている。
九里氏は、九里村土着の豪族で応仁・文明の乱(1467〜1477)で活躍した九里美作守賢秀を祖とし、その孫信隆の頃に義澄を迎えたが、このことから伊庭、九里氏と六角氏の間に不和が起こった。信隆は、永正11年(1514)六角氏の謀略によって殺され、子の浄椿が後を継ぎ城主となったが、永正17年(1520)六角定頼、細川高国に攻められ、伊庭貞説と九里浄椿はこの城で40日間の籠城戦を戦ったが、敗れて開城した。
その後、大永5年(1525)に伊庭、九里氏の残党が一時この城に立て籠もったが、黒橋合戦に敗れて廃城になったとされる。
なお、この城で、永正6年(1509)3月には義澄の室が第12代将軍・義晴を生み、同年8月には京に攻め上がった義澄が敗走して帰城の後、この城で病没している。

構造と感想
水茎岡山城は、安土城円山城と同様に、琵琶湖に浮かぶ水城であったが、戦後の干拓事業によって周囲の内湖が埋め立てられ、「湖中の浮城」と云われた当時の景色は消失している。
この城の城域は、琵琶湖に面する北西側の頭山(標高147.8m)とその南東側に位置する大山(標高187.7m)、さらにその南側の亀山(113.7m)に跨っているとされる。頭山の遺構は、琵琶湖総合開発事業に伴う湖岸道路敷設や造成により著しい破壊を受け遺構の確認が出来ない状態になっている。大山には、山上一帯や南の山麓に良好な遺構が残されている。亀山については、詳しい踏査が行われていないようである。
頭山と大山の鞍部を走る湖岸道路沿いの頭山側に大きな「水茎岡山城址」の石碑があり、その対面から大山の北西尾根を山頂に向け20分も登ると城跡に至る。山上には大小二つの長方形の郭があり、西の郭(約50m×約13m)が最高所で四方への視界が開けている。東の郭へは西の郭より大堀切に架かる土橋を通じて連絡しており、西の郭よりやや広く(約75m×平均13m)高さはほぼ同じで、東端にL字型の土塁を伴っている。両郭の北側には土塁を伴った帯郭(東西約220m×南北約60)が囲繞している。帯郭の東北側に延びる約60mの土塁は大きなもので郭と云っても過言ではない規模である。また、東西郭の南側には腰郭、その外一段下がって北側から続く帯郭が囲繞しいる。さらに南側山麓には、ひな壇状の郭が東西二群あり、大手筋を守備するよう配置されているようである。
山頂部の東西郭は細長い形状をしており、南側の腰郭や山麓の郭群を防御する土塁を兼ねているようにも見える。
なお、この城は土づくりの城であるが、昭和55、56年の発掘調査で頭山と大山の間の鞍部に見事な石垣を伴った居館跡が発見され、約220uの平坦地に礎石立建物が6棟、溝、広場、土抗、周辺の土塁等が確認されている。この遺構は、将軍・義澄の仮の御所の可能性が高いと指摘されている。
このように史実を裏付ける遺構が発見されている城跡に立つと歴史の臨場感を味わえる。ただ残念なのは、孟宗竹の繁茂が著しく東西郭から南側の観察がままならない点である。

道 案 内
北側の帯郭と土塁 名神高速道竜王インターを下りて国道477号を北に4.2km程行った西横関交差点で右折し、国道8号線に入る。国道8号を1.3km程北東に進むと東川交差点に至り、その交差点を左折して県道326号線に入る。県道326号線を北西に3.9km程行った小舟木町交差点を直進、更に2.7km程行くと琵琶湖畔の湖岸白鳥川交差点に出る。その交差点を左折し県道559号線に入り、南に1.7km程走ると道は独立丘の鞍部を通るが、その両側が城跡である。駐車は、鞍部に上る手前の右手に空き地があり、そこに駐車できる。            

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