No25207−03 金ヶ森城 (かねがもりじょう)       

道西坊(善立寺) 金ヶ森城全体図

城郭の概要                  
別  名 : 金森御坊
所在地 : 守山市金森町
築城年 : 戦国後期
形  式 : 館城、寺内町
遺  構 : 堀跡、
訪城日 : 平成23年2月19日

歴   史
金森には、鎌倉時代に在地土豪の川那辺氏が居館・金森城(砦)を構えていたが、室町時代に入ると川那辺厚春が本願寺第五世綽如に帰依し、天台宗から浄土真宗に信仰を変え、その子在貞が永享3年(1431)金森城の跡に「金森惣道場」を構築するに至った。さらにその子矩厚(1399〜1488)は第七世存如(1396〜1457)に帰依し、道西と名乗るようになり、この頃に金森惣道場を中心として周囲の民家を含め惣村全体を堀と土塁で囲い込み要塞化したと考えられている。
道西は、寛正6年(1465)比叡山の僧兵による「寛正の法難」によって京都の大谷本願寺を取り壊された第八世蓮如上人を金森に迎え、蓮如上人は金森に寄住し3年をこの地で過ごし、湖南各地への布教に務めている。
しかし、翌寛正7年正月には金森も山徒日浄坊の襲撃を受け、蓮如上人は赤野井坊に難を避け、「金森の城衆」は赤野井の慶乗等が将となり応戦(第一次金森合戦)したが、赤野井坊や堅田への山徒押防は止まなかった。こうした中で蓮如上人は文明3年(1471)道西らを伴って北陸・吉崎へと移っていた。その後、東山道と志那港を結ぶ交通の要衝に位置する金森は、寺内町へと発展していった。
永禄11年(1568)江南が織田信長の手に落ちた後、元亀元年(1570)5月綣村から農民一揆が蜂起するが、信長は稲葉一鉄を守山に、同貞通を勝部に、佐久間信盛を浮気に置き、守山城に押し寄せた一揆勢は死者一千二百余人を出し崩れ、6月には一揆勢は六角軍とともに野洲川の戦いで佐久間信盛と激突するも780人の死者を出し敗退した。
また、6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺第十一顕如は三好三人衆、浅井・朝倉氏と手を結び、各地の一向宗門徒に檄を飛ばして織田信長に宣戦布告し、石山本願寺(大坂)を拠点に10年におよぶ石山合戦が始まった。これに呼応して、元亀2年(1571)8月末大坂側から派遣された川那辺藤左衛門秀政の指揮のもと金森惣道場は三宅城と共に蜂起し佐久間信盛と対決するが、8日間の攻防の末に人質を交換し和睦した。
しかし、翌元亀3年(1572)3月に信長は江南の一向宗徒が金森・三宅両城と内通しない旨の起請文を出させて、7月再び金森、三宅などを攻めこれを落城(第二次金森合戦)させた。9月には朱印を持って金森に「定 條々」を発し、楽市楽座を開き、諸役を免除し、一揆の拠点金森寺内町の解体を図るとともに商業都市金森を新興した。
なお、織田、豊臣、徳川に仕え、豊臣秀吉から飛騨一国を与えられた「金森長近」は、美濃土岐氏の支流で、父の大畑定近が金森に居住したことから青年期をここで過ごし、ここの地名から金森姓を名乗ったと云われる。

構造と感想
道西坊旧址の石碑
善立寺の南側が当時の惣道場で一向宗の寺内町として要塞化した時代の中心となったところとされる。要塞化にあたっては、寺内町全体が周濠と土塁によって防御されたと考えられている。遺構としては、堀跡と思われる水路が金森集落の北と南側に残る程度である。なお、水路を挟み集落の南側に位置する小字「城ノ下」には、かつて明瞭な微高地と土塁の痕跡が残っていたようで、また「城」があったとの伝承もあり、川那辺氏の城館があったと推測される。しかし、現在は金ヶ森町城ノ下地区と呼ばれる新興住宅団地に変貌している。               

道 案 内
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号に入り北東方向に520m程先の宅屋口バス停を越えた交差点(北東側にパチンコ店がある。)を左折する。県道145号線に入り北西方向に道なりに3.3km程行った古高町交差点で右折する。北東方向に370m程行って川沿いの道に左折し、西北西140m程先で右折する。直ぐ川を渡り15m先のT字路で左折して70m入ると右手が善立寺で、その前やや手前が金ヶ森城の中心である。最後に左折したT字路を直進してすぐに蓮如上人杖堀池跡があるようである。

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