No25207−06 三宅城 (みやけじょう)       

山門前虎口 北に延びる土塁

城郭の概要                  
別  名 :
所在地 : 守山市三宅町
築城年 :
形  式 : 寺院城郭
遺  構 : 土塁、堀・濠跡、
訪城日 : 平成23年2月19日

歴   史
三宅城があった蓮生寺は、中世には叡山に属していたが、寺主の三品源太夫宗直が蓮如上人に帰依して了西と号し、長禄4年(1460)浄土真宗に改宗したとされる。同寺の東約500mに位置する上人の高弟・道西が開いた金森の善立寺とともに、江南の本願寺門徒たちの拠点となった。
元亀元年(1570)本願寺が信長と対立し、翌元亀2年(1571)8月末信長の宗教弾圧に蜂起した江南の門徒たちに対して、佐久間信盛を将とした信長軍が金森を包囲した。このとき蓮生寺は金森の支城として、応援の小南衆も加わり信長軍に抵抗した。8日間の攻防の末、人質を交換して和睦をしている。その後、信長は歴史上に有名な比叡山の焼き討ちを行った。
翌元亀3年(1572)3月信長は江南の一向宗徒が金森・三宅両城と内通しない旨の起請文を出させ、7月再び金森・三宅を攻めこれらを落城させ、この地を佐久間信盛の支配下に置いた。
なお、蓮生寺本堂は、元和元年(1615)に再建され、近世初期の真宗寺院の様式を今に伝えている。

構造と感想

南側土塁
三宅城は、蓮生寺を南東隅、薬師堂を北西隅とする環濠集落であったと考えられている。
遺構は、蓮生寺付近に残っており、寺の北側は石垣化されているが、山門前および境内の南から西にかけて高さ1m余りの土塁と一部の空堀が残存している。また、蓮生寺東側の土塁は寺域を越えて北に延びており、三宅集落が環濠集落であったことを示す痕跡とされている。
なお、蓮生寺から約150m西に所在する照養寺の裏手に「坊屋敷」と呼ばれる微高地の畑・藪があり、信長に対抗した一揆の際に三宅の「真浄坊」が他宗でありながら味方について奔走したことが知られ、その跡ではないかと考えられている。
ところで山門前は袋小路状の虎口になっているが、慶長の頃に公儀御代官駒井猪之助の屋敷となったと伝えられるため、その時の改修と見られている。

道 案 内
名神高速栗東インターを下りて取付高架道路を国道8号方面に向かい1.4km程走ると国道8号に合流する。国道8号に入り北東方向に520m程先の宅屋口バス停を越えた交差点(北東側にパチンコ店がある。)を左折する。県道145号線に入り北西方向に道なりに3.8km程行った金森町西交差点で左折する。南西方向に200m程行って小道へ右折し、北西方向80m程先の左手が連生寺で城跡である。

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