岩村城  No21210−03 (いわむらじょう)       

本丸の六段石垣 本丸西面の二段石垣

城郭の概要                  
別  名 : 霧ヶ城
所在地 : 恵那市岩村町城山
築城年 : 文治元年(1185)
形  式 : 山城
遺  構 : 石垣、石塁、櫓台、虎口、井戸、堀切、竪堀、土塁、
訪城日 : 平成28年11月6日

歴   史
岩村城は、文治元年(1185)に加藤景廉が築いたとされる。景廉は源頼朝の臣で恵那郡遠山荘の地頭職に捕せられ、その嫡男・景朝が地頭職を継承して、初めて遠山氏を名乗り、以後遠山氏代々の居城となった。
戦国時代には遠山氏は恵那郡一帯に勢力を張り、岩村遠山氏が惣領家で、遠山七家(遠山七頭)や三遠山家(遠山三頭、岩村城主・遠山景任、苗木城主・遠山友勝、明知城主・遠山景行)の中心的な地位を占めていた。
しかし、恵那郡遠山荘は信濃、三河両国と美濃国中西部との境目に位置し、永禄から天正年間になると美濃攻略を狙う武田氏と織田氏による争奪戦の場となった。
永禄3年(1560)織田信長は、武田氏に従っていた景任に叔母を嫁がせ、苗木城主・遠山直廉には妹を嫁がせて、遠山氏を味方に引き入れた。元亀3年(1572)信玄が西上の動きを本格化させる中、景任・直廉兄弟が相次いで病死し、この機に信長は岩村に五男御坊丸(勝長)を養子として送り込み、苗木を姪を室とする飯羽間の友勝に継承させた。
これに対し信玄は、11月高遠城城主・秋山虎繁を総大将に岩村城攻めを行った。この際、岩村城は景任未亡人を虎繁の室とすることを条件に無血開城したとも云われる。12月には明知城城主・遠山景行、苗木城城主・遠山友勝、飯羽間城主・友忠(友勝の弟)、そして串原、足助の織田方諸将が岩村城奪還を試み蜂起したが武田勢に撃退された。(上村合戦)
天正2年(1574)信玄の跡を継いだ勝頼が明知城、串原城などを一斉に攻撃し落城させると、信長は小里城に池田恒興を、鶴ヶ城に河尻秀隆を入れ、武田勢に対する最前線の城として改修を行なわせた。
天正3年(1575)5月、信長は勝頼を長篠合戦で討ち破ると、その直後に嫡男・信忠に岩村城を攻めさせ奪還を果たし、川尻秀隆を入れた。天正10年(1582)には団平八を入れたが、本能寺の変で信忠とともに討死したため、金山城主・森長可の家臣・各務兵庫が岩村城に入って、近世城郭への大改修を行ったとされる。
慶長4年(1599)忠政(長可の弟)が信濃国松代へ転封となり、替わって信濃国松代から田丸直昌が入封したが、直昌は翌年の関ヶ原合戦で西軍に付いたため改易となり、慶長6年(1601)上野国那波から大給松平氏が入封した。寛永15年(1638)大坂の役の功により大給松平氏は遠江国浜松に転封となり、替わって三河国伊保から丹羽氏信が入封したが、元禄15年(1702)丹羽氏は家中騒動で越中国頚城に左遷され、その後に信濃国小諸から大給石川氏が入封し、以後明治まで続いた。

構造と感想
岩村城は、大和の高取城、備中の松山城と並んで日本三大山城の1つとされている。標高717mの山頂一帯に築かれており、江戸時代に存した城の中では最も高い位置にあったとされるが、比高が140m程で、山頂部もなだらかで広いこともあり、さほど高い山城には感じられない。
構造は、頂部に本丸を置き、東から北側の一段下に長局(帯曲輪)が付帯し、さらに長局の東側一段下に東曲輪が設けられている。この本丸一帯は南斜面を除き見事な総石垣造りになっており、圧巻は長局の北東面石垣である。雛壇状に築かれた六段からなる石垣で、岩村城のシンボルとなっている。ここの石垣は元々は高石垣だったが、崩落を防ぐために押さえに積まれて現在の六段の石垣になったようである。また、本丸西面にも二段からなる長大な石垣が築かれており、これも見応えがある。本丸の各虎口も良好な状態で残っている。
本丸北下が二の丸で、曲輪内は西側が一段高く、中央やや西寄りに方形の池があり、中島を設け弁て財天を祀っていた。二の丸の北から西面は切岸で、東面のみに低い石垣が築かれ、その北東角には高石垣の菱形をした櫓台が構えられている。
本丸南西下には出丸が置かれているが、四周は北面のごく一部に石垣が積まれているのみで、他は切岸である。本丸の西側から南側、東側へと帯曲輪が廻り、帯曲輪は二の丸東側を通り、二の丸北東下で北西に折れ、尾根筋を下って追手門に至る。
二の丸北東側の対面には、搦手の俄坂門、その北側に八幡曲輪と屋敷地が続き、奥側の一段高い八幡曲輪には八幡神社が祀られている。八幡曲輪前の屋敷地から城道は勾配を強め、両脇の二区画の屋敷地やその一画にある霧ヶ井を過ぎると櫓門形式の追手門である。
この追手門は、岩村城の中で最も堅固で技巧的な造りの門である。追手門を出ると枡形で、桝形内で左に折れ、正面の棟門を出ると畳橋と呼ばれる木橋である。畳橋の下は深い空堀で、敵の来襲時は橋板を取り外し、敵を食い止めるとともに、畳橋の正面、追手門の横に三重櫓が構えられ、左手の棟門に押し寄せる敵に横矢を効かせている。
岩村城の中心部は近世城郭として大修築されているが、四囲に延びる尾根筋には堀切や曲輪など中世の城郭遺構が残されている。

道 案 内
中央高速道の恵那インターを下りて、恵那IC交差点で右折し県道68号線に入り、400m程先の坂の上交差点で左手に進む。引き続き県道68号線を270m程行き西神田交差点で直進し市道に入る。市道を700m程走ると神明交差点に至り、そこで右折して県道415号線に入る。県道415号を南へ340m程行くと国道19号との正家交差点に至り、そこを直進して国道257号に入る。国道257号を道なりに4.5km程行くと阿木川ダムに至り、引き続き国道257号を6.8km程進むと岩村町の一色交差点に至る。そこを直進し引き続き国道257号を道なりに2.7km程行くと左手に岩村城への案内板が建てられている。そこで左折して林道に入り320m程登るとT字路に至る。左折して道なりに250m行くとY字路があり、出丸駐車場50mの案内板が建てられている。左手に進み終点が出丸駐車場である。

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本丸と虎口           東曲輪と長局の北面石垣


本丸の埋門を下と上から見る


長局の埋門を下と上から見る


菱櫓                 大手道沿いの屋敷地


大手門の絵図と現況


霧ヶ井           中世遺構の堀切